2010年5月16日日曜日

平成22年5月朝参りお知らせ



 先日、長岡地区の御檀家の御墓での供養がありました。古い墓石の中に寛政の年号が入ったものがありました。
 寛政の改革を指導した白河藩松平定信は、八代将軍吉宗の孫に当たり、英明の誉れ高い教養人でもありました。
 その定信が「下野の百姓は江戸の華美な風にあこがれて、先祖伝来の土地を捨て、江戸に流れ込んでいる。まことに嘆かわしい。」と言ったと伝えられています。
 寛政の改革より十年ほど前、天明の大飢饉が起こりました。東北地方を中心に数十万の餓死者が出ました。下野の国も大凶作となりましたが、御先祖の苦難はそれだけではありませんでした。
 徳川吉宗は、家康公をたいへんに尊敬して、祖廟日光東照宮へのお参りを厳格に勤めました。特に旧暦四月十七日の命日の前後には、朝廷よりの例幣使、上野寛永寺の輪王寺門跡の社参など、大行列が日光街道、例幣使街道を通りました。大行列には助郷役と言って人馬の徴発が課せられます。
 この負担がたいへんでした。旧暦四月は、田植えなど稲作には一番大切な時季です。凶作と賦役、この二つによって、年貢を納められない農家が続出しました。
 当時の年貢は高持と言って負担が家ごとに決まっており、五軒が連帯責任で納めました。納められないものは、田畑を他人に譲り江戸に流れていったのです。下野の国は全国一の過疎地になりました。
 村を捨てて行く人にとって一番の気がかりは、先祖の墓が無縁となることでした。そのため、わずかに残された耕作地を縁者に譲って墓守を頼んだといいます。宇都宮近辺の野墓地や参院にはその名残の石塔がたくさんあります。定信の言うような華美な風にあこがれてのものでは決してありませんでした。
 二百年を超す風雪に耐えた墓石を前にして、御檀家の御先祖の苦労を思いながら読経いたしました。
  
  平成22年5月15日                     祥雲寺住職 安藤明之

十八日の観音様の朝詣りは
午前6時から行います。

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