2018年2月24日土曜日

30年2月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内



「蓋し一色の弁道による」 典座教訓』

 今年から県内有志で集まって勉強会を行っています。
一人では中々熟読出来ない難解な古書も、皆で集ってワイワイしながら読めば楽しく理解を深められる。
これぞ大衆の威神力、皆で行うことの有り難さを改めて感じます。

 この勉強会の最初の一冊は道元禅師の『典座教訓』となりました。
鎌倉時代、中国から帰ってきた道元禅師は、当時寺の下働きの役目であった調理こそ、修行として極めて大切な役割であり、典座(調理担当の僧侶)こそ仏道修行そのものであると、この本を通して強く表明されています。

 関西の僧侶にネルケ無方さんという曹洞宗の方がいます。
この方はドイツで学生のころ坐禅サークルで仏教に触れて、兵庫の安泰寺に飛び込み修行僧となりました。
入門の際に師匠から「お前が安泰寺をつくるのだ」と言われ感激したそうですが、来る日も来る日も掃除や調理ばかりで、修行らしい修行は出来ないことに不満を漏らしたところ、今度は師匠から「お前のことなんか知るか」と言われ落胆したそうです。

 しかし後日思い返してみれば、仏道修行とは我執を捨て心をととのえていくことであり、皆で連携して雑事をこなし寺を運営し、共に修行の場をつくっていくなかで自分の修行を主張するばかりであった自分への叱咤は当然であり、むしろこれこそが「我執を離れろ」という師匠の激励の言葉であったのだと気づかれたそうです。

 『典座教訓』では典座のことを、悟りを求める深い心をおこした人達だけが、いつも役にあてられてきた職である、と説いています。
「蓋し一色の弁道による」(思うにそれは、典座の職というものが、純粋で雑念のない仏道修行そのものであることによる)

 食事を戴くことは生命を繋ぐ為に必須のことであり、修行僧にとって修行を完遂し悟りをひらく為に無くてはならないこと。
自らの修行を優先するのではなく、共に道を歩む輩の為に活力を養わせる典座こそ尊い役割であり、我執を離れる浄行そのものである。

道元禅師の修行観、その姿勢に叱咤激励される思いであります。

                       祥雲寺副住職 安藤淳之


一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?



日時:2月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 
               6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
               7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。




2018年2月18日日曜日

2月15日、涅槃会(お釈迦様の命日)

2月15日はお釈迦様の命日です。
80歳になられたお釈迦様はインドのクシナガラの地で病の床に臥され、二本の沙羅の木(沙羅双樹)の間に横たわれて、たくさんのお弟子に囲まれながら涅槃に入られました。
今日でも仏教徒は、この日はお釈迦様を偲ぶ大切な日として世界中様々な形で行事を行っています。



本堂に掲げられた涅槃図(亡くなられるシーンを描いた掛け軸)

準備活動中の折り紙の会作成の沙羅の花。
花弁一枚一枚を小さく折った鶴で作成しています。

集まられた人と一緒に読経



御詠歌講による涅槃の歌のお唱え
 
最後に涅槃図へのお参り
来年は、天井絵を作成していただいた杉山寒月先生作の新しい涅槃図を掲げ、宇都宮仏教会の協力を得て盛大に行うべく計画中です

2018年2月17日土曜日

平成30年2月 観音朝詣りのお知らせ

観音朝詣り


西国三十三観音さまにお経を唱えお参りしていきます。


 80才になられたお釈迦様は、長らく止まって居られたガンジス川中流域のマカダ国の霊鷲山(りょうじゅせん)を出られて一路北に向かわれました。
お供するものはアーナンダ(阿難尊者)一人、故郷シャカ族のカピラ城に帰ろうとした後の旅として南伝の涅槃(ねはん)経にその様子が詳細に記されています。

 その中で、途中病気になられた釈尊が、阿難尊者に与えた「自灯明、法灯明」と言われる言葉を紹介します。

 アーナンダよ、私はもう老い朽ち、齢を重ねて老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は80となった。
アーナンダよ、たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、私の車体も革紐の助けによってもっているのだ。
しかし、アーナンダよ、向上につとめた人が一切のとらわれを心にとどめることなく、あるがままをあるがままと受け止め、とらわれのない心の統一に入って止まるとき、そのとき、彼の身体は健全なのである。
それ故に、アーナンダよ、この世で自らを灯火(ともしび)とし、自らを拠り所として、他人を拠り所とせず、法を灯火とし、法を拠り所として、他のものを拠り所とせずにあれ。

 老衰の身を古ぼけた車にたとえる心境について、齢70を迎える私にも少しずつ実感が湧いてきました。
老い死んでいくのは避け難いことですが、そのあるがままをあるがままとし、しかも自分の生きる道を自分の意志で生きて行く。
その道を照らす灯火となるのは自分自身であり、真理としての法です。
釈尊のこの言葉には、老いを超えた力強さ、独り行くものの気高さがこもっています。

                                  祥雲寺住職 安藤明之



まだまだ寒さ厳しい時ですので
十八日の朝詣りは午前9時から行います。