2016年11月27日日曜日

28年11月 月例早朝坐禅会「指月の会」  案内

坐禅部屋の聖僧様

聖僧様は坐禅をしている文殊菩薩様です。


先日、観音経の講義に出席し、良いお話を聞くことが出来ました。

世の中には色々な観音さまがおられますが、最も数が多いのは聖観世音菩薩、聖観音様になります。
この「聖」という字は宗教的仏教的にも多くの所で使われ、また時には人名として使われたりもします。
聖僧、聖観世音菩薩、高野聖、捨て聖、などなど。
しかし、この聖、聖なるとは如何なる意味の言葉と受け取ればよいのでしょうか。

「聖」という字は、分解すると「耳」を「呈」すると読み解けます。
耳を呈する、つまり聞くことを差し出す、と解釈できます。
よくお小言を言う人に対して「聞く耳を持たない」などと言った言い回しをしますが、
私たちは相手を見て、
「この人の話はよく耳を傾けねば」「この人の話は話半分に聞いておこう」
というように相手を見てどの程度に聞くのか、という分類をしてしまっていることと思います。
それで良い場合は多いのでしょうが、ある種人に対して壁を作る場合も生まれます。
聖、耳を呈する、とはこのような区別を持たずに、誰であっても真摯に耳を傾ける、そうした分け隔てのない心映えを表する言葉なのです。

日本の観音信仰の祖は聖徳太子と言われますが、聖徳太子は豊郷耳皇子とも呼ばれ
十人の人の話を聞けたと伝承されています。
この解釈からこの逸話を見てみたならば、数多の人の数だけ考え好み性質が異なる「十人」十色の人々の声を、その人に合わせて聞き届けられた、まさに観音様の如き徳を示された人であったからこそ、聖なる徳の太子と称されたのではないかと思います。

聖性、聖なるものとは、分別を超えた、分け隔てのない心の尊さを表す言葉として
用いられてきたものであり、観音様とはそのように人々に接し耳を傾けてくださる菩薩さまであると教わりました。


                                          祥雲寺副住職 安藤淳之


一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:11月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。




また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています


なお、次回12月の指月の会坐禅会は歳末ということもあり、第三週月曜日の19日朝より行います。



2016年11月19日土曜日

祥雲寺の本堂でヨガ教室を行いました。

去る11月17日の午後から、祥雲寺の本堂でヨガ教室が行われました。
 
最初に住職からお話をして、本堂での教室の前に仏様にてを合わせ、
先生を囲んで十数名の方たちとヨガを行いました。
 
もともと仏教とヨガというのは歴史的にも大変つながりが深く、
副住職も修行していた寺で何度かヨガのインストラクターの人から教わったことがあります。
 
普段の風景とは全く毛色の違う、良い催しとなりました。
来られた方も、お寺の静かな空気の中でのヨガはよいリフレッシュになったことと思います。
 

 




2016年11月16日水曜日

平成28年11月 観音朝詣りのお知らせ

祥雲寺から見る宇都宮タワーと境内のイチョウ



この子らを世の光に


 本年7月、神奈川県相模原市の障碍者施設で痛ましい事件が起こりました。
26歳の元職員の男によって入所者19人が殺害され、重傷者も20人に及びました。
大事件でしたのでご記憶のことと思います。

 犯人が
「重度の障碍者は生きていても世の中の負担になるだけだから、世のために自分が殺してあげるのだ」
と動機を述べました。
人格が破綻した自己中心の愚か者の妄言です。
しかし、障碍者や世の中の弱き人たちへの迫害を正当づけるこのような考え方は、ナチスドイツなど、世界の歴史の中で繰り返されてきました。

 また、被害者の名前を警察が公表しなかったことについて、被害者家族の一人が
「日本では、すべての命はその存在だけで価値があるという考えは特異とされ、優生思想が根強いためである」
と説明したとのことです。

 優生思想とは、人間の中ですぐれた資質を持つ者の環境を良くし、劣った資質を持つ者を排除するという考え方です。

 「すぐれた」「劣った」を決めるのは人間の主観です。

 お釈迦さまは生きとし生けるものの平等を説かれました。
仏教が広まった日本には、障碍者や弱き者への深いあわれみの心を持つ人はたくさんいたし、今もいます。
しかし、それでも上に記した今回の被害者家族の方が感じている現実がないとは言い切れません。

 障碍者が生まれると、家の恥として人に知られないように家族内に隠してしまうことが一昔前まで行われていました。
現在は家庭からも切り離されて施設に隔離されているようです。
隔離からは、人としての心の交流は何一つ生まれません。
差別が生まれるだけです。

 日本人の障碍者に対する見方、対応に、このようなことが続いているならば、改めなければなりません。
 
 冒頭の言葉は、日本の社会福祉を切り開いた糸賀一雄氏のものです。
氏はキリスト教徒でした。
言葉が「この子らに世の光を」ではないところに、障害を持って生まれた人たちへの敬愛が込められています。

 平成28年11月15日
                                          祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時半から行います。