2016年12月18日日曜日

28年12月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

祇園精舎の菩提樹。
お釈迦様在世の時、最も長く留まって修行された場所。
「諸行無常、一切皆苦、諸法非我」
                             『ダンマパダ』 


12月8日はお釈迦様成道の日です。
伝承では、6年の苦行を離れた後、菩提樹の下で禅定に入り、一週間の後、明けの明星と共に悟りを開かれました。

その後5人の修行仲間に始まり、亡くなられるまでガンジス流域を中心にあらゆる階層の人々に教えを説いて歩まれました。

お釈迦様は相手に合わせて様々な言葉で教えを説かれましたが、その中心となる教えが冒頭に挙げた三法印と呼ばれる言葉です。

「一切の形成されたものは無常である。 」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである。」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである。 」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
                                     -『ダンマパダ』-

あらゆるすべては移り変わっていき、自分の身を含めて思い通りになるものは一つとしてない。
全ては執着を持つべきものではない、そう受け取って生きることが、清浄な生き方であると説いています。
それは、執着こそが人間を縛り世界をゆがめ、そこに苦しみが生まれるからです。
故に執着を挫いて欲望から自己を自由に開放する、清らかな生き方を説いているのです。

仏教の教えは、この清らかな生き方を如何に実践するか、なのです。
煩悩、妄執にとらわれた人間にとって、自己浄化こそ、仏道の基本となるのです。

この清浄行として行われてきた仏道修行、その大切な一つが坐禅なのです。
近年マインドフルネスの名で学校や職場等で実践されているとのことですが、その時に大きな過ちとなるのが、そこに効率性を求めることです。
瞑想は、マインドフルネスは、坐禅は色々なものをもたらしてくれる。それは科学的に実証されています。
しかし、そこに効率性つまり執着を持ち込めば、それは清浄行足り得ません。
その執着が心を縛ります。
坐禅は何物も求めず只ひたすらに行う。
何も求めないからこそ、そこに何とも言いようのない清々しさを感じるのでしょう。
私はそれこそが、道元禅師の説かれた「只管打坐」であると思います。

                                 祥雲寺副住職 安藤淳之




一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:12月19日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。




また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。







平成28年12月1日、無縁供養、水子地蔵尊例祭。


毎年12月1日は祥雲寺無縁供養、水子地蔵尊供養の日です。
 
 祥雲寺の無縁供養は天明年間(二百二十年前)に起源をもつ伝統行事です。
私たちは普段の行いとして親類縁者の為の供養(一周忌等の年回供養)を行いますが、無縁供養は直接のつながりがなくとも自分たちに恵みを与えている諸々に、そして天地万物に対して行われる報恩感謝の供養です。

 この日に合わせて祥雲寺石彫り会「羅漢の会」の石仏の点眼式、水子地蔵尊の供養、また来山して頂いた皆さんに楽しんでもらえるよう演奏会を行っています。
 
石彫会の羅漢点眼

雨天の中巡行

今年彫りあがった羅漢様の点眼式。

無縁供養塔の前でテントを張って法要。

水子地蔵尊例祭。水子地蔵さまに線香をあげ手をあわせています。

午後は演奏会。市内のシルバーアンサンブルの演奏です。

75歳以上の面々での演奏会。曲目はこの年代の青春時代の歌を中心。

パンフは130以上用意しましたが全部はけてしまいました。

平成28年12月 観音朝詣りのお知らせ


12月8日は成道の日。写経会の納経会を行っています。
本尊さまの台座にお経を書き付けた石を投入します。



 お釈迦様は、老病死の苦しみを見て、生きるとは何かという問いを抱えて出家されました。
6年の苦行のあと、中部インドのブッダガヤの地、ナイランジャ川のほとりの菩提樹のもとで禅定に入り、12月8日の暁に、明星が燦然と輝く中で悟られました。

 しかし、お釈迦様は悟られた内容を、すぐには説法しようとはされず深い禅定に入ったままでおられました。
世界の創造神である梵天はその様子を見ていました。
そしてお釈迦様が真理を説いてくださらなければこの世は滅びてしまうと危惧し、おん前に現れて、衆生のために説法してくださるよう必死に勧めました。

 梵天の請いを受け容れたお釈迦様は、私はあらゆるところに行ってすべての衆生に説法しようと決心され、菩提樹のもとから出立されました。

 梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と名付けられたこの話は、お悟りが説法されることによって衆生が救われたのであるから、これはお釈迦様の無限の大慈悲心のあらわれであるとして、語り伝えられました。

 東京大学名誉教授の斉藤明先生は、この時のお釈迦様の大慈悲心が具現したものが観世音菩薩であり、それがよく表れているのが十一面観世音菩薩の姿であると言われます。

 十一面観音は、頭上に十の顔と禅定にある仏さまを載(の)せています。
これは四方八方上下の十方世界に慈悲の眼を向けてあらゆる生きとし生けるものをみそなわしているのであり、中央のほとけさまは菩提樹下に禅定するお釈迦様に他ならないということです。

 そうしてみれば、観音さまは仏さまの使いではなく、お釈迦様そのものということです。

 肉親のお釈迦様は、紀元前383年、北インドのクシナガラで入滅されました。
しかしお釈迦様の大慈悲心は、観音さまとなって生きとし生けるものを救い続けています。


 平成28年12月15日
                                      祥雲寺住職 安藤明之


十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

2016年11月27日日曜日

28年11月 月例早朝坐禅会「指月の会」  案内

坐禅部屋の聖僧様

聖僧様は坐禅をしている文殊菩薩様です。


先日、観音経の講義に出席し、良いお話を聞くことが出来ました。

世の中には色々な観音さまがおられますが、最も数が多いのは聖観世音菩薩、聖観音様になります。
この「聖」という字は宗教的仏教的にも多くの所で使われ、また時には人名として使われたりもします。
聖僧、聖観世音菩薩、高野聖、捨て聖、などなど。
しかし、この聖、聖なるとは如何なる意味の言葉と受け取ればよいのでしょうか。

「聖」という字は、分解すると「耳」を「呈」すると読み解けます。
耳を呈する、つまり聞くことを差し出す、と解釈できます。
よくお小言を言う人に対して「聞く耳を持たない」などと言った言い回しをしますが、
私たちは相手を見て、
「この人の話はよく耳を傾けねば」「この人の話は話半分に聞いておこう」
というように相手を見てどの程度に聞くのか、という分類をしてしまっていることと思います。
それで良い場合は多いのでしょうが、ある種人に対して壁を作る場合も生まれます。
聖、耳を呈する、とはこのような区別を持たずに、誰であっても真摯に耳を傾ける、そうした分け隔てのない心映えを表する言葉なのです。

日本の観音信仰の祖は聖徳太子と言われますが、聖徳太子は豊郷耳皇子とも呼ばれ
十人の人の話を聞けたと伝承されています。
この解釈からこの逸話を見てみたならば、数多の人の数だけ考え好み性質が異なる「十人」十色の人々の声を、その人に合わせて聞き届けられた、まさに観音様の如き徳を示された人であったからこそ、聖なる徳の太子と称されたのではないかと思います。

聖性、聖なるものとは、分別を超えた、分け隔てのない心の尊さを表す言葉として
用いられてきたものであり、観音様とはそのように人々に接し耳を傾けてくださる菩薩さまであると教わりました。


                                          祥雲寺副住職 安藤淳之


一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:11月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。




また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています


なお、次回12月の指月の会坐禅会は歳末ということもあり、第三週月曜日の19日朝より行います。



2016年11月19日土曜日

祥雲寺の本堂でヨガ教室を行いました。

去る11月17日の午後から、祥雲寺の本堂でヨガ教室が行われました。
 
最初に住職からお話をして、本堂での教室の前に仏様にてを合わせ、
先生を囲んで十数名の方たちとヨガを行いました。
 
もともと仏教とヨガというのは歴史的にも大変つながりが深く、
副住職も修行していた寺で何度かヨガのインストラクターの人から教わったことがあります。
 
普段の風景とは全く毛色の違う、良い催しとなりました。
来られた方も、お寺の静かな空気の中でのヨガはよいリフレッシュになったことと思います。
 

 




2016年11月16日水曜日

平成28年11月 観音朝詣りのお知らせ

祥雲寺から見る宇都宮タワーと境内のイチョウ



この子らを世の光に


 本年7月、神奈川県相模原市の障碍者施設で痛ましい事件が起こりました。
26歳の元職員の男によって入所者19人が殺害され、重傷者も20人に及びました。
大事件でしたのでご記憶のことと思います。

 犯人が
「重度の障碍者は生きていても世の中の負担になるだけだから、世のために自分が殺してあげるのだ」
と動機を述べました。
人格が破綻した自己中心の愚か者の妄言です。
しかし、障碍者や世の中の弱き人たちへの迫害を正当づけるこのような考え方は、ナチスドイツなど、世界の歴史の中で繰り返されてきました。

 また、被害者の名前を警察が公表しなかったことについて、被害者家族の一人が
「日本では、すべての命はその存在だけで価値があるという考えは特異とされ、優生思想が根強いためである」
と説明したとのことです。

 優生思想とは、人間の中ですぐれた資質を持つ者の環境を良くし、劣った資質を持つ者を排除するという考え方です。

 「すぐれた」「劣った」を決めるのは人間の主観です。

 お釈迦さまは生きとし生けるものの平等を説かれました。
仏教が広まった日本には、障碍者や弱き者への深いあわれみの心を持つ人はたくさんいたし、今もいます。
しかし、それでも上に記した今回の被害者家族の方が感じている現実がないとは言い切れません。

 障碍者が生まれると、家の恥として人に知られないように家族内に隠してしまうことが一昔前まで行われていました。
現在は家庭からも切り離されて施設に隔離されているようです。
隔離からは、人としての心の交流は何一つ生まれません。
差別が生まれるだけです。

 日本人の障碍者に対する見方、対応に、このようなことが続いているならば、改めなければなりません。
 
 冒頭の言葉は、日本の社会福祉を切り開いた糸賀一雄氏のものです。
氏はキリスト教徒でした。
言葉が「この子らに世の光を」ではないところに、障害を持って生まれた人たちへの敬愛が込められています。

 平成28年11月15日
                                          祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

2016年10月23日日曜日

28年10月 月例早朝坐禅会「指月の会」 案内

第一土曜日の羅漢拝、石彫会の皆さんと十六羅漢(釈尊の高弟)にお参りします。


和合の功徳は僧宝なり  
                                                                    『教授戒文』帰依三宝より




 ついこの間扇風機をしまったと思ったら、あっという間に暖房機を出したくなる気温になってしまいました。
朝の坐禅で寒さを感じる季節になると、きまって思い出すのは冬の永平寺での坐禅です。

 毎年12月になると、蝋八大接心という一週間起床から就寝まで坐禅をし続けるという大行事が行われます。
当時僧侶となって半年が過ぎたころの私は、古参僧侶や同輩との付き合いが上手くいかず、周囲との摩擦で僧侶としての自身の在り方に疑問を持っていました。
そんな時期にこの大行事に臨むことになり、逆に悩んでるどころではなくなってしまいました。

 朝の3時頃に起床して坐禅が始まり、夜9時に就寝するまでわずかな間を挟みながら坐禅を続けます。
一日目は体力で乗り切りました。
二日目は身体にガタが来て気力で乗り切りました。
三日目は体中が痛くなって息も絶え絶えで就寝の時間を待ち望みました。
四日目は痛みが酷く気力も尽きかけてどうやって古参の目を盗んで楽をするかしか考えられませんでした。

 五日目、同輩同士で些細なことから言い合いになり、ギスギスした空気で坐禅に臨みました。
自分は、なんでこんな苦役をやっているのかまるで分らなくなり、頭の中はぐちゃぐちゃになりながら坐っていました。
そんな時、ふと「周囲が優しくないのは、自分が周囲に優しくしていないからだ」という思いと共に頭のぐちゃぐちゃがストンと腹に落ち、あんなに辛かった坐禅が憑き物が落ちたみたいに楽になりました。
その後はぼんやりとしながらも落ち着いた心持ちで勤められるようになり、不思議な気持ちで一週間を終えました。
周囲とも落ち着いて付き合えるようになり、摩擦も少なくなっていきました。
私にとって、坐禅がただ退屈な形ばかりのものではないのだと思えるようになったのはこの時からです。

 後日、横浜の大本山總持寺で修行するようになってから、後堂(修行の責任者)の野田大燈老師にこの時のことを話しました。
野田老師は
「修行しているとそうした小悟大悟(様々な気付き)をする。自分もある。道を歩むということはこれを繰り返していくことだ。生涯繰り返しなさい。」
というような意味のことを教えてくださいました。

 あの時から数えて13年が経ちました。
私のこの道の、最初の一歩の思い出です。


                                   祥雲寺副住職 安藤淳之

一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:10月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。




また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています



                                                                         

2016年10月16日日曜日

平成28年10月 観音朝詣りのお知らせ

栃木県梅花大会。今年の御詠歌講の発表会は18日に栃木市で行われます。

 宗教とは何かと問われて、もし一言で云うとしたら「感謝」であると思います。

 人から何かの恩を受けたとき、それに対して感謝の気持ちを持つことは、人間としてあたりまえのことです。

 しかし自分が生きていること、日常の生活を送っていることに対して、それを有りがたいことと感じ、感謝の思いを持つことはなかなかに出来ません。

 とくに、健康でいるとき、生活が順風満帆であるときには「日常」の有りがたさはなかなか見えてきません。

 自分自身の、あるいは身近なものの病気や不幸に会ったとき、人は当然ながら悩み苦しみます。
そのときに、不幸の原因を他人や他のものに求めてそれで納得する人もいるでしょう。
自分の生きる意味を考えてそれに納得のいく答えを出そうとする人もいるでしょう。

 しかし、生きる意味についての納得のいく回答など、なまなかに出せるものでもありません。
その多くは錯覚による自己満足でしかないと思います。
メッキはすぐにはがれてしまい、また悩み苦しみに戻ります。

 そうした中で、自分自身がこの世の中に生きているという事実だけは否定しようもありません。
その時、自分が生きていることをすばらしいと感じ、さらに進んで、人により、ものにより、生かされていることをありがたいと感じることが出来るかどうかが分かれ目です。

 たとえ神仏を信じなくとも「感謝」の思いを持つことの出来る人は宗教の門のうちに在ります。

平成28年10月15日

                          祥雲寺住職 安藤明之


十八日の朝詣りは午前6時から行います。


〈お知らせ〉
平成26年1月に、仏教の教えを根底に据えたような物語としてNHK朝ドラ「ごちそうさん」が、いまBS3チャンネルで朝7時15分から再放送されています。
どこが仏教的かなどと考える必要もなく、たいへんすぐれた面白いドラマですので、ご覧になることをおすすめします。

2016年9月25日日曜日

28年9月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内


9月後半は台風ばかりでしたが彼岸末日は少しだけ夏めいた天気になりました。
彼岸花はいつも彼岸ちょうどに咲いています。

『峯の色 渓(たに)のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼仏の 声とすがたと』
                                            『正法眼蔵渓声山色』

 私は自転車が好きです。
 車の運転も悪くないですが、自転車の自分の力で速度と距離を出して風を感じ、遠くへ駆けていく感覚は十年続けていてもなお色あせない魅力で私を外へ駆り立ててくれます。

 宇都宮の北を流れる山田川サイクリングロードは川に沿って整備された自転車道で、車を気にすることなく自由に走れるのでよく利用していますが、郊外の川に沿って走るので四季のちょっとした変化も感じることが出来るお気に入りのコースです。
 
 5月のころに走ると若葉の季節らしく青々とした木々に彩られ、今時分に走ると瑞々しさを失くしつつも秋の彩りへと移り変わる気配を感じられます。
どちらも里山の自然の中、溢れんばかりの生命の働きを全身に浴びながら、自分の呼吸と鼓動を重ねて感じ、言葉にし辛い一体感を持ちます。
 
 そんな時、決まって思い出すのは相田みつをさんの詩作
「花はただ咲く ただひたすらに~」
です。
 
全ては無常の真理の中、移ろっていくこの一時に咲いた命を精一杯に生きている。
天地自然の中にあるものは、ただその命の有様そのままに生きて、そのままに死んでいく。
それでいいのだと。
自ずから然りと、その有様を示してくれているように感じられます。

そして、この言葉の秀逸に感じるところは後半の
「~ただになれない 人間の私」
の部分です。

自然はその姿そのままに答えを示してくれている。
無常に抗うのではなく、受け入れるのだと。
それこそが、喜怒哀楽に左右されない真の意味での安心(あんじん)を得られる道なのだと無言のうちに教えてくれている。
それでも、答えを知りつつそのように精進しようとしても、
なお迷いの世界に立ち戻ってしまう弱く脆い私たち凡夫を優しくさとし頷いてくれている。
相田さんの慈悲の眼差しを感じられる、素晴らしい愛語であるといつも感じます。

                                         祥雲寺副住職 安藤淳之



一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:10月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。




また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています

 


平成28年祥雲寺大施餓鬼会

 毎年8月29日は祥雲寺の年中最大の行事、お施餓鬼の日となります。
 お檀家さん全ての御先祖様の供養を行う、一年で一番忙しい日です。
 
 今年は八月後半が冷夏になり、また当日は大雨が心配されていましたがどうにか最後まで天気も持ってくれて、無事お勤めすることが出来ました。
 
 

御詠歌講員さんによる本尊様への奉詠

施餓鬼午前中は檀信徒総会。一年の報告会です。

午後一時から法話


岩手正法寺、盛田老師
施餓鬼会。

施餓鬼会、本尊様への御焼香

施餓鬼中の天気。今年は外幕は大雨を警戒して張れませんでした。
掲げられている仏旗は仏教のシンボルカラー5色で構成され、世界共通になってます。


法要中の御詠歌奉詠。今年の詠讃師は上三川長泉寺、山崎雄堂師範。

 

2016年9月17日土曜日

平成28年9月 観音朝詣りのお知らせ

山門前の百日紅(さるすべり)
 


 リオ五輪で、女子レスリングの吉田選手が負けてしまいました。
彼女は、女子レスリング全体を引っ張ってきました。
その責任感から、何が何でも負けられないという強い使命感を背負っての戦いでした。

 負けた瞬間、彼女はマットにうつぶせになって泣いていました。
直後のインタビューでは、
「沢山の方に応援していただいたのに銀メダルになってごめんなさい。申し訳ない。何とか最後は勝てると思っていて、自分の力を出し切ることが出来なかった。日本の主将として申し訳ない。」
と、「申し訳ない」の繰り返しでした。

 表彰式になってメダリストたちがずらりと並んだ時には、魂が抜けてしまったような姿で立っていました。
台に上ってもそれは変わりませんでした。

 不敗の王者として、世界中から目標にされ、弱点も調べ尽されていたはずですから、負けることも大いにあり得ることで、銀メダルに終わってもだれも非難などしません。
観衆は盛大な拍手を送りましたが、それでもうちひしがれた姿は変わりませんでした。
金メダルのアメリカの選手は、吉田選手に敬意を持っていたようです。
はしゃぐことなく控えめにしていました。
それでも表情に喜びが自然にわき上がってくる。
それが対照的でした。

 でも、私は、このときの悄然とした姿に感動しました。
全身全霊を傾けて敗れるのならばこんな姿でいたいと。

式後のインタビューの言葉は、私にとってさらに素晴らしいと思えるものでした。

 亡きお父さんとどんな言葉を交わしましたかと問われて、
「父が居ないオリンピックは初めてだったのでどこかで助けてくれると思っていたかもしれない・・・。
お父さん私をここまで育ててくれてありがとうって言いたいです。」

 正直な言葉だと思います。
最後に感謝が口に出たのが素晴らしい。
神仏への額(ぬか)づきと相通じると思いました。

平成28年9月15日                      祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。

2016年8月21日日曜日

28年8月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

成道会、お釈迦様に礼拝する写経会の人たち。
 先日、渋谷にて「ラサへの歩き方」という映画を見てきました。
チベットに生きる人たちが、生涯に一度はチベット仏教の聖地ラサを参拝することを望み、その1200キロの道程を五体投地しながら一年がかりで歩んでいく、という映画でした。

 残念ながら中国人監督、中国配給という制約の中での作品なのでチベット仏教の精神性、チベット人としてのアイデンティティに踏み込むことは難しかったようで、やや淡白なつくりの映画ではありましたが、それでも現代文明の恩恵の中でもなお古式にのっとり大変な労力と時間をかけて巡礼に臨むチベット人の峻厳な自然に生きる姿を見られたのは大変に良かったです。

 チベットに限らず、どの国においても私たち仏教徒はお互いに手を合わせて合掌をし、互いを敬い礼をします。
そして特に、仏様には全身を地に投げ出し、五体を地に臥して礼拝をします。
それは、仏様の人格、教え、そのすべてを仰ぎ見て敬い、何より「わたし」を投げ出して受け入れるという精神の所作であります。
ゆえにこそ、この映画に見える人々の姿には清々しさを感じることができるのだと思います。

                                                   祥雲寺副住職 安藤淳之



一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:8月22日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。













2016年8月13日土曜日

平成28年8月 観音朝詣りのお知らせ

弁天さまのお堂。


 5月に境内の弁天堂に泥棒が入りました。
新聞に載りましたのでご存知の方もいると思います。

 5月17日に弁天堂を掃除していた中川さんが、堂内にある小さな木彫りの像がなくなっていることに気が付きました。
石彫会の渡辺さんが彫った琵琶を持つ弁天様の像で、心を込めて彫り上げたものを粗末にはできないと思い、弁天堂に納めたのです。

 その時は、それしか気がつかず、警察にも届け出ませんでした。
ところが、中央警察署の警察官が尋ねてきて、祥雲寺からの盗品を預かっているのだが心当たりがないかと尋ねられました。
別の容疑で逮捕された泥棒の部屋を捜索したら、祥雲寺の名前の入った絵馬があったというのです。

 盗まれていたのは、木像、絵馬のほかに何とご本尊弁財天像が右手に持つ剣と左手の掌に持つ宝珠でした。
目の前におがんでいながら気が付かなかったのです。
何とも恥じ入るばかりであり、弁天様に謝罪申し上げねばなりません。

 調書に記載する必要があるというので、損害額を聞かれました。
さて、いくらになるのでしょう。
7月7日の弁天祭りの前にすべて戻ったのですから、実質の損害はありません。
そもそも、信仰の対象に値段をつけることは出来ません。

 テレビの人気番組「なんでも鑑定団」などで、仏像にとてつもない値段がつけられることがあります。
人の嗜好の対象である骨董品、美術品として商取引されることを前提にしています。

 しかし、仏像や神像は信仰されてこそ価値があるのです。
祥雲寺の弁天様は、もともと前の小学校のところにあった沼地の祠にまつられ、おそらく何百年と信仰されてきました。
御像も古いものですが、骨董的価値のあるものではありません。
それでもありがたい。

 宗教的なものに関心が無いのは、一般的な風潮のようです。
このことで取材に来た若い新聞記者が、「宮司さんはいますか」と言ったのにびっくりしました。
確かめたら寺も神社も代表は宮司と言うと思っていたようです。

 平成28年8月15日
                                      祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。

2016年7月24日日曜日

28年7月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内



四国お遍路札所、五百羅漢堂




「心を以てはかることなかれ、ことばを以ていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
                                            『正法眼蔵』 生死の巻




 先日『感じる、調べる、もっと近づく、仏像の本』という本を読みました。
 一頃、歴女仏女という言われ方で歴史や仏教に興味関心を持つ女性を表現していましたが、この本はその仏女、仏像ガールの方が書かれた本との事です。


 読んでみると大変よく勉強されていて、むしろ自分の不勉強が恥ずかしくなるほどに丁寧でありながら、初めての方でも楽しんで読める敷居の低い素晴らしい本でした。
 その書き出しの所で
「仏像をあまり学術的に見て欲しくない。~思いを込めて仏像と向かい合い、ただ手を合わせる、それだけだったはずである。」
という部分がありました。
 仏像の素晴らしさを知るためには、言葉も知識も余計なもので、「感じること」が大切との事です。


 仏像、仏の姿、仏の形。
 私がそこに興味関心を持てるようになったのは、やはり修行の時からでした。
 福井にある曹洞宗大本山永平寺では、毎年12月になると1週間朝から晩まで坐禅し続ける「摂心」という大修行を行います。
朝3時に起きて夜9時に寝るまでの間、ひたすら坐禅をする僧堂に籠って坐禅をするのですから、1年目の出家してまだ間もない    私は足腰の痛さにめげそうになりながらなんとか坐禅に臨んでいました。
 最後の7日目の夜、坐禅の合間に坐りながらお茶をいただく行茶の時間になり、私は給仕役として初めて坐禅中の僧堂を落ち着いて見回すことができました。


 そこには仏様たちが坐っていました。
 これまで共に寝起きして修行していた先輩同輩の僧侶たちが、まさしく「ほとけ様」と言うべき、思わず手を合わせ拝みたくなる尊いお姿で、ずらり並んで坐られていました。


 身も心も、つまり「自分」を放ち忘れて仏の悟りの姿形、坐禅の姿にすべてを預けてしまうとき、力を入れることも心を費やすこともなく、生き死にの迷いを離れて仏となる。
 坐禅という行の素晴らしさ、仏様の姿かたちの尊さ、というのを私はこの時初めて知ることができたように思います。


                                            祥雲寺副住職 安藤淳之








一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:7月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。


7月7日 べんてん祭り

7月7日は境内のべんてん様の例祭を行っています。

毎年この日は天候不順が多かったのですが、今年は珍しく快晴の中で行えました。


天然記念物しだれ桜のすぐ裏手にあるべんてん堂

年に一度の例祭日、
べんてん様もお天気につられていつもより晴れやかに見えます。

御詠歌講のお唱えから始まります。
式衆入場。
 
諸災消除、諸縁吉祥を願って転読
 
法要が終わったらお昼をいただいてすりばち灸
夏を乗り切れるよう、べんてん様の火を頭にいただきます。






2016年7月13日水曜日

平成28年7月 朝詣りのお知らせ

7月7日べんてんまつり、転読しての参列者諸災消除諸縁吉祥の祈願

 バングラディシュで痛ましい事件が起きました。
テロの犠牲になったのは、日本人の中の宝石というべき人たちです。
 
 この世界の一隅に火を点(とも)し、人びとの幸せのために分け隔てすることなく仕事をしていた人達です。

 ご家族の悲しみはいかばかりでしょう。
縁もゆかりもない我々でさえ悲しみに胸が熱くなります。

 犯人たちに憎しみを感じます。
しかし、あの若者たちの心情は、おそらく、身を捨てて大義を成し遂げようとしたのです。
見方を変えれば殉教者であり愛国者です。

 なぜこんなことが起こってくるのか。

 背景には、欧米の先進国が、石油の利権をわが物にしようとして、中東のイスラム教の世界に介入したことがあります。
湾岸戦争、イラク戦争が起こり、現在も止め処ない内戦が続いています。

 欧米だけのせいにできない色々な要因はありますが、過激派はこの状態をもたらした責任は欧米にあるとしています。
そして、欧米と戦うための根拠をイスラムの教えの中に求めています。

 先日、イスラム教を研究する先生の講義を受けました。
イスラム国やアルカイダのような暴力を是とする考えは、本来のイスラム教にはありえないそうです。

 しかし、現実にイスラム国やアルカイダはイスラムの大義のためと称しテロをくり返し、止むことがありません。
それらの組織が壊滅しても、また新たな組織が生まれ同じことがくり返されます。

 私は、全知全能の神を立てる一神教の中に、対立を生み出す根本的な問題点があるのではないかと思っています。
自分たちの信じる神にのみ正義があり、信じないもの、別の神を信じる者は正しくないのです。

 ブッシュ大統領はアフガニスタン派兵決定にあたり
「これは十字軍だ。邪悪な者との戦争だ。」
と演説しました。
これと、テロリストたちが
「神は偉大なり。聖戦(ジハード)だ」
と叫ぶこととあまりにも似ています。

異なった文化、歴史を持った人々の心が通じ合うには、
「絶対に」
という言葉はいりません。

                    平成28年7月15日 祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。

2016年6月26日日曜日

28年6月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

祇園精舎の菩提樹
「放下着」(ほうげじゃく)
                      中国唐代、趙州和尚



 先日NHKスペシャルで「キラーストレス」という題名の特集がされていました。
現代社会で日々受けるストレスが、時には脳の機能をも損なうほど深刻に害をもたらす場合もあり、そのキラーストレスにいかに対処するか、という内容でした。

 第一の対処法は、宇宙飛行士が宇宙空間という一切余剰のない空間で行っている手法を例に挙げ、小さいものでも自分がストレスを晴らせると思う対処行動をまず10個以上、できれば100以上列挙し、ストレスを受けていると認識したら即座にそれを行っていく「コーピング」というものでした。

 第二の方法として挙げられたのが「マインドフルネス」。
昨今医療、教育、ビジネスなど様々な場所で行われているストレス対処法で、「こころのエクササイズ」などといった言われ方もされているとのことです。
しかしこれは言い方を変えただけで、やっていることも目的とすることも坐禅と全く同じもののようでした。

 静かな環境に身を置いて、姿勢をを正し呼吸を整え、只座って深く穏やかに呼吸に集中していると、自然と心も落ち着いてきます。
その過程で過去の記憶や未来の想像が頭をよぎっても、今に集中している「只、今」の自分には余計なことです。
今現在の生命をそこねる重荷でしかありません。

「捨てれば必ず軽くなる
捨てて、かろやかに生きなさい」    -『スッタ二パータ』-

この坐禅会が、多くの人にいのち本来のかろやかさを取り戻す場となれば、大変うれしく思います。

                             祥雲寺副住職 安藤淳之



一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:6月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
7月第一週(6日)は行事前日の為お休みになります。

2016年6月18日土曜日

平成28年大本山永平寺参拝旅行(6月13日~15日)

 
曹洞宗には本山が二つあります。
福井にある大本山永平寺、そして横浜鶴見にある大本山總持寺。
祥雲寺では毎年交互に大本山をお参りし、併せて観光旅行を楽しんできました。
今年は新しくできた北陸新幹線に金沢まで乗って福井永平寺へお参りし、白山林道を通って白川郷、高山を観光してきました。
 
兼六園。雨に濡れたつつじ。

永平寺門前で記念写真。

初日は永平寺に宿泊。夜の坐禅会。


二日目、白山ホワイトロートの滝の前にて

白川郷の大橋にて。


白川郷の寺前に咲く紫陽花。

白川郷。

円空仏のお寺。高山千光寺へのお参り。

円空仏(許可を得て撮影)

円空仏

夜、宴たけなわ。


宿泊した高山花扇ロビー




飛騨の朝市にて

新穂高ロープウェイ山頂


山頂2

二泊三日の行程中、好天には恵まれませんでしたが、楽しい道中になりました。
また来年もよいお参りができるよう企画していきたいです。