2015年5月20日水曜日

27年5月月例早朝坐禅会「指月の会」案内



お前の苦しみを、じっとみつめて見よ。
誰々にののしられたか、誰々により損害を受けた、
誰々に手ひどく負かされた、誰々に盗まれた、
という思いを抱いてはいないか。
その思いがすでに怨みであると知りなさい。
怨みを抱いた人生は重いものだ、安らぎというものがなくなってしまう。
いっさいの怨みを棄てよ。
今まで抱いてきたあれこれの思いをさっぱりと棄てよ。
棄てれば、必ず軽くなる。
棄てて、かろやかに生きなさい。
                   - 『スッタニパータ』第一章 -



静かな処で何をするでもなく落ち着いて瞑想をすることで心身の調子が整う、という事は昔から広く知られ、行われてきました。
近年では科学的分析により血圧が下がる、海馬の機能が促進され脳内の情報整理がされる、精神安定に重要な働きをするセロトニンの生成が促される、等の効果が確認されているそうです。
しかし坐禅は、これらの効果を内包しながらも、何も求めないで只ひたすらに坐る事こそ最上のものである、と伝えられてきました。

私はそれは、「軽くなる」からだと思います。

人間生きていれば百人百様、様々な想いやしがらみを背負っているはずです。
古人は人生を「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と形容したそうですが、時には荷を下ろし、わが身を見つめ直す時間こそ忙しい現代人に必要なものだと思います。

一人で行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝座禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?


日時:5月25日朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。

2015年5月13日水曜日

平成27年5月観音朝詣りのお知らせ

4月末、早朝の藤の花

我が説法は筏(いかだ)の喩(たとえ)のごとしと知るべし。
法もなお捨てるべし。            「金剛般若経」


 筏(いかだ)の喩えとは、お釈迦様が弟子達に説いた有名なたとえ話です。

 旅人が、大きな川に出会った。
こちらの岸は危険で恐ろしく、向こう岸は安全であるとしよう。
彼は草、木、枝、葉を集めて筏を組み、無事に川を渡ることができた。
渡り終えて
「この筏は私のためになった。行く先でも役に立つであろうからこれを持って行こう」
こう考えることは正しいことであろうか。

 弟子たちは答えます。
 「正しいとは思いません」

 それではどうしたら彼は、その筏に対してなすべきことをなしたことになるのだろうか。
すなわち、この筏は私のためになった。
これによって安全にこちらの岸に渡った。
私はこの筏を岸に引き上げ、あるいは水上に浮かべて、そのままにして行こう。
彼がこのようにしたならば、筏に対してなすべきことをなしたのである。
このように、ものに執着しないように、この筏のたとえを知っている君たちは教え(法)をもまた捨てるべきである。

お釈迦様は、人間がどうしたらとらわれから離れることができるかについて、さまざまな形で説かれました。
わかりやすいたとえ話もあれば、むずかしい理論もあります。
厳しい修行への導きもあれば、深い慎みをもって日常を生きるべしとの諭(さと)しもあります。

 ひとつひとつは、解脱のためのすぐれた手立てであり、それが法です。

 しかし、いかに素晴らしい手立てであっても、それにとらわれてしまう時、それは「とらわれ」「足かせ」となります。

 お釈迦様は、みずからの教えさえも相対化する透徹した教えを説かれているのです。

 もちろん、法を捨てても、道を求めてたゆむことなく進むものには、清浄な心が保たれ、天地に恥じない人倫が貫かれていることは言うまでもありません。
法とはそういうものです。

平成27年5月13日
                          祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。