2017年6月17日土曜日

平成29年六月 観音朝詣りのお知らせ

石割の桜の木

観音様の台座から十年かけて成長したので台座を調えなおしました。

 私は「忖度(そんたく)」という言葉が好きで、昔から使ってきました。
人の心を推し量るという意味ですが、相手の立場を思いやって尊重するという語感があります。
相手への敬意と、自分の志も保たねばならないという自戒を含んでいて、凛(りん)とした言葉だと思っています。

 ところが、現在かまびすしい学校開設認可をめぐる疑惑事件の報道で、一部の政治家や官僚の「忖度」は私のイメージとは違った使い方であることを知りました。

 テレビ番組で、政策決定のゆがみを告発した前文部科学省事務次官のインタビューを見ました。
印象としてこの人の言うことに嘘はないと思いました。

 そこで気になったことがあります。
それは、内閣府の高官が、文科省の担当者に対し
「これは官邸最高レベルの考えである」
というような言葉で許認可の変更を迫っていることです。
これは、権力を持つ者が、命令ではなく、より大きな権力を持つ人の意向を伝えて、下の者に推し量らせて目的を達成しようとしているのです。
上にいる人間の都合のよいように推し量ることができない、すなわち忖度することができなければ、不利益になるぞと脅しているのです。

 命令は責任が伴います。
しかし、下の者が上の意向を忖度してそれに従った決定をするならば、言質を取られることもなく、責任を取らされる証拠も残さないで事が運べるのです。
これがどんなに危険なことか。
決して忘れてはならない前例があります。

 かつて日本が戦争へと突き進んだ時に、政界や軍や官僚機構で同じようなことが行われました。
責任の所在が曖昧になり、結局「一億総懺悔」という言葉で、一番悲惨な目に遭った国民全体の責任にしてしまいました。

 そんな結果を生み出しかねない政治の手法として「忖度」が使われるのならまっぴらです。
どんなよい言葉でも、使う人間の心根によって薄汚れていってしまう、そんなやりきれなさを感じています。

平成29年6月15日
                                      祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。

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