2017年12月19日火曜日

12月1日、無縁供養水子地蔵尊例祭


毎年12月1日は祥雲寺無縁供養、水子地蔵尊供養の日です。
 
 祥雲寺の無縁供養は天明年間(二百二十年前)に起源をもつ伝統行事です。
私たちは普段の行いとして親類縁者の為の供養(一周忌等の年回供養)を行いますが、無縁供養は直接のつながりがなくとも自分たちに恵みを与えている諸々に、そして天地万物に対して行われる報恩感謝の供養です。

 この日に合わせて祥雲寺石彫り会「羅漢の会」の石仏の点眼式、水子地蔵尊の供養、また来山して頂いた皆さんに楽しんでもらえるよう演奏会を行っています。
石彫会による500羅漢の点眼式
新しく彫られた羅漢さま
無縁供養塔前での式

御詠歌講の方たちとお唱えしながら巡ります。

水子供養


宇都宮シルバーアンサンブルの演奏。
皆で昔懐かしの歌を合唱しました。



2017年12月16日土曜日

29年12月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内


フラワーアレンジメント教室作品


正見(正しく見る)『八正道』

 

先日テレビでOLをしている山ガールの取材が流れていました。

曰く、山登りの良いところは、何も思い煩う必要がないところにある、だそうです。

普段の仕事の場だと、気配り目配りが煩雑で、なかなか気が休まらない。

だけど山では、計画準備をきちんとすれば、ただ登り、ただ降りることだけに専念すればいいだけで、そこに全力を、迷うことなくつぎ込めばいい、そのシンプルさがいいのだといっていました。

私も山登りは好きです。

ただあるがままの自然の中では作為は存在せず、普段の社会の中での日常から離れて命を働かせる。坐禅の中で感じる清々しさにも似た印象を受ける事すらあります。

それは、雑念に惑わされる必要がない時間なればこそ、と思っています。

 

仏教では、迷いから離れる八つの正しい行い、八正道というものがあります。

その一番最初に来るのが正見、正しい見方です。欲に振り回されずに物を見る目を養うには、欲に振り回されている普段の自分から一度離れる必要があります。

 

「見たものを綺麗と思うのは、それを見たあなたの心が綺麗だから。」

 

昔どこかでこんな表現の言葉を聞きました。

山の中で見る景色をことさら綺麗と思うのは、普段と違うまなざしで見れているからかもしれないですね。
 
                                祥雲寺副住職 安藤淳之
 
 
 
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:12月18日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 
今月は歳末の為第三月曜日に行います。

     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

 
 
 

平成29年12月 観音朝詣りのお知らせ

祥雲寺陶芸教室作品展示


 今上陛下が退位され、再来年の五月一日に新陛下が誕生します。

 即位の儀礼について、新しい時代に即したものにするという見出しが新聞に載っていました。

 儀礼の中で最も大切なものは大嘗祭です。
皇居に大嘗宮が設けられて行われます。
祭礼の次第は一応公表されていますが、詳細は伏せられているので秘儀とされるものです。
そのため、戦前から現代まで多数の学者がその意味を考察しています。
いろいろな説があるのですが、ともかく皇位を継承するに当たっての宗教的な儀礼であることは否定できないことでしょう。

 ここで問題が生まれます。
それは、国がいかなる宗教的活動もしてはならないという憲法の規定があるので、大嘗祭のために国費(税金)を使えるかという疑問です。

 これについては、是とするにせよ、非とするにせよ、法律家を始め、識者からいろいろな意見が出ると思いますが、私は公費の出費はあってしかるべきであると思います。

 それは、全体として日本国民は象徴としての天皇を受け容れているという現実から来るものです。

 敗戦の時、天皇制が廃止される可能性はあったはずです。
そうならなかったことにより歴史と文化の総体としての日本国が存続できたと私は思います。
また、そこから生まれた安定した国情が戦後の復興と繁栄に大きく寄与したとも思います。

 天皇の権威がどこから来ているのかを理屈でもって示すことはできません。
今日、天皇が神であると思っている人は殆どいないでしょう。
私は昭和天皇に対しても今上天皇に対しても敬愛の念を持っていますが、お二人とも同じ人間です。
しかしその人が国の象徴という特別な存在になるのは、何らかの儀式が必要であると思うのです。
そしてその儀式は伝統を踏まえたものであり、宗教性を帯びることは自然なことと思うのです。
 
 人間は宗教性を持った生き物です。
今日、さまざまの人が声高く叫ぶ、宗教性を排除することが正しいとする言説に納得することは出来ません。

 平成29年12月15日 
                                        祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

2017年11月26日日曜日

29年11月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内



無縁供養塔横の大銀杏


 もうじき12月、今年も一年が過ぎようとしています。

 この時期になるときまって思い返すのが永平寺での修行時代、一週間の集中坐禅修行「摂心」の時です。

 お釈迦様は29歳で出家され、6年の苦行生活の後、菩提樹の下での一週間の坐禅に入り、悟りを開かれました。
その故事に倣い、禅宗の寺院では12月1日から一週間起きてから寝るまで只管坐禅を行う「摂心」という修行を行います。

 15年前の私もまた、福井永平寺でこの修行を行いました。
当時の私は、坐禅が言葉ばかり先行した、無意味で退屈な慣例としか受け取ることができず、毎日の坐禅は漫然とやり過ごすものにすぎませんでした。
しかし摂心に臨み、朝3時から夜9時まで坐禅三昧ともなると、これまでのようにやり過ごすこともできず、心身の消耗にあえぐばかりでした。
数日が過ぎて、朦朧とした意識の中で、同じく消耗した仲間との軋轢に悩んでいると、ふと、それまで頭を悩ませていたあれこれがすとんと腑に落ちて、ラクに坐禅ができるようになりました。
摂心を終えて僧堂を出てみれば、福井の山中の冷たい夜気が今までと違って胸に心地よく、仏さまを模した配置の永平寺七堂伽藍が、懐の深いものなのだと訳もなく感じられる自分を不思議に思いながら床に就きました。
私が坐禅を、退屈なだけの慣例などではなく、素晴らしい行なのだと受け取れる様になったきっかけの時です。

 私は永平寺できっかけを、總持寺で確信を、御誕生寺でそれを語る言葉と姿をいただくことができました。
その素晴らしさを、有り難さを多くの方に知ってもらいたい、その思いでこの十年坐禅会を続けてきました。

 この時期、寒さ深まる12月を前にすると、あの時の雪降り積もる永平寺をいつも思い返します。
この道の、仏道の尊さを思い返させてくれる肌寒さを有り難く感じる自分で有る様、明日もまた坐禅に臨みたいです。

                           祥雲寺副住職 安藤淳之



一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:11月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 

     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

尚、12月の坐禅会は第三週の18日(月)に行います。


2017年11月15日水曜日

平成29年11月 観音朝詣りのお知らせ


境内の紅葉

寺の屋根にとまるアオサギ。


 日本では仏壇と位牌をとても大事にします。

 仏壇の起源についてはいろいろな説があります。

 古代に帰属が仏像を屋敷内に祀った持仏堂が小型化したという説。
家の中に祀られたであろう小さな仏像がインドやシルクロードの遺跡からもたくさん出土していますから、日本だけでない古い起源になります。

 お盆に先祖の御霊を供養するために設けた盆棚が家屋内に常設されるようになったという説。
7月15日に川の畔で亡き人のために供養をするのは現在のヒンズー教でも行われていますので、盆供養はインドに由来しますが、棚を設けたかどうかは分かりません。

 鎌倉時代に先祖を祀るために室内に置かれた「押し板」という床の間の起源と同じものが変化したとする説もあります。

 位牌は中国のものです。
死者の名前や官位を記して祭礼に用いたものですが、鎌倉時代以降に禅宗が伝え、戒名が記されて礼拝されるものとなりました。

 仏壇とお位牌の組み合わせが広く普及したのは江戸時代です。
日本独自の信仰文化といっていいでしょう。
そして、とても素晴らしいものです。

 何が素晴らしいのかというと、感謝を捧げるものが身近に会って、毎日少しの時間でも感謝のひとときを過ごすことができるからです。

 仏教徒として正しい生き方の根本にあるのは「感謝」です。
お釈迦様は、人間がこの世の無限の恵みによって生かされていることを自覚し、生きとし生けるものと共に生きていることを喜びとすることが感謝であり、それが幸せへの道であるとお説きになりました。

 仏壇に祀られている父母は、直接に私たちに命を与え育ててくれた人であり、その先にはご先祖がいらっしゃいます。
その前で感謝の思いは自然に湧き上がります。
その感謝の思いを、さらに大きな天地万物への感謝へと導いてくださるのが仏壇の中心の本尊様です。

 毎朝、仏壇の香炉にお線香を立てて心を込めておまいりをすることは、私たちが正しく生きていくことができる支えとなります。

 平成29年11月15日
                                         祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時半から行います。

 


2017年10月22日日曜日

29年10月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

秋の日の羅漢さま



「悉有仏性」

 
 私は自転車に乗るのが好きです。
補助アリではありますが、自分の力で風を切って走っていく感覚がとても好きです。
時間のある時は郊外の河川敷を一時間ほど走っています。
春夏秋冬それぞれの季節の現れがよく見えて、強く自然を感じられる時間でもあります。

 5月のころ、若葉生い茂る季節、河川敷を何時ものように走っていると茂り育つ若葉が太陽にきらめき、新緑の木漏れ日が鮮やかに川面を照らしています。
そんな時、何とはなしにふっと「世界に仏の命が満ちている、ああ悉有仏性とはこういうことなのか」という想いが浮かびました。

 仏性というのは仏となる要素、それがあらゆる命に備わっているのだという言葉が悉有仏性です。
仏性という言葉は扱いが難しい言葉です。歴代の多くの先達がいろんな意味で使ったため、詳細に定義することすら難しく、曖昧になりかねないため私自身あまり好んで使おうとは思わない言葉でもあります。
しかしこの時は、天地万物あらゆるものがあるようにある、各々の有様にそって正しく育ち芽吹き花開かせている、その正しい命(神羅万象の運行営み)の働きをこそ「仏性」と称するのではないか、そんな風に感じました。

 人間に置き換えるなら、昔読んだベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハン師の言葉が最初に浮かびます。
「ブッダはあなたのなかにいます。ブッダは、呼吸の仕方も、優雅に歩む方法もよくご存じです。あなたが忘れていても、ブッダよ、来てくださいとお願いすれば、すぐに駆けつけてくださいます。」

 坐禅の調身調息調心でよく戒められるのは、強引に心を鎮めようとするのではなく、自分の身・息・心に謙虚に問いかけて、その都度、より正しい在り方を新鮮に習っていかねばならないことです。
強引にやろうとすればかえってそれは遠ざかっていきます。
謙虚に、真摯に整えることで正しい命の働きを促し、はたらかせていくことが坐禅の肝要な所、そこにこそ仏性の働きがあるのだと思います。

 最後に引用します道元禅師の言葉は、これをこそ意味しているのだと私は理解しています。

「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。」
『正法眼蔵 生死』
 

                                 祥雲寺副住職 安藤淳之

 

 

一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:10月23日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 

     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
 
 

 

2017年10月18日水曜日

平成29年10月 観音朝詣りのお知らせ

秋彼岸の本堂前観音様と彼岸花


 アフガニスタンのバーミヤン石窟の大仏像がイスラム教原理主義者によって爆破されたのは16年前のことです。
最近でも、中東の動乱の中で多くの遺跡、文化財が破壊されています。
19世紀から20世紀前半には、ヨーロッパ各国の探検隊が、博物収集の目的で世界中から神像を持ち去り、あるいは壁画を剥ぎ取っていきました。

 自らの信仰、信条のみをよしとして、歴史、文化を異にした人たちの魂が込められた文化財を壊してしまうことが繰り返されているのは悲しいことです。

 東京芸術大学美術館で、「素心伝心 クローン文化財 失われた刻の再生」という展覧会がありました。
バーミヤンなど、おもにシルクロードで失われたり、失われようとしている文化財の再生を試みたものです。
瓦礫等に科学的な分析を行い、スケッチや写真などの記録を基に3Dプリンターなどの新技術を駆使して実物に限りなく近いものを造りあげています。

 失われたものではありませんが、法隆寺の釈迦三尊像も複製されています。像が造られた時の工法や、材料の銅の成分まで調べて造像し、さらに、細かいでこぼこや経年による変色まで写し取っていますので、実物と見まごうばかりです。
それだけでなく、昭和24年の火災で損傷した壁画も再生して周りを囲んでいるので、まるで白鳳時代のお堂にお参りしているようです。

 この複製事業には、富山県高岡市と南砺波市の協力がありました。
高岡は梵鐘をはじめとする銅鋳物の生産地であり、南砺波には井波の木彫があります。
高度で伝統的な技法を伝えている人たちが参加し、芸術家、科学者、先端技術者と力を合わせました。
言ってみれば最新技術と伝統技術の融合によって生まれたものです。

 文化財は、それが存在するところに生きた人々の魂の結晶です。
存在することに真の価値がありますし、あるべき所にあることも大切です。
しかし、現実に失われたり、失われようとするものがたくさんある現在、このような試みも大きな意義があると感じました。

 平成29年10月15日
                                     祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。

2017年9月23日土曜日

29年9月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

この夏羅漢渓に咲いた蓮の花

 
「不立文字」
 
 
先日、坐禅会のことで新聞の取材を受けました。
朝日新聞の若い記者さんでしたが、以前は京都で寺社の取材を担当していたそうで、とても博識な方でした。
 
私の纏まらない話を大変うまく整理してくださり、簡潔な読みやすい記事用の文章にされて確認を求められましたが、この文章は変えてもらいたい所が一つ目につきました。
「言葉では語りつくせない仏様の教えを坐禅で体感してほしい」といった表現の所です。
 
昔から禅宗では「不立文字」と言って、悟りの心は頭で理解するものではなく体で納得するものだとされ、故に文字によって立たず、不立文字と表現してきました。
坐禅のことは坐禅でしか表現し得ない、他のものに還元して理解することの出来ないものです。
このまとめの表現はむしろとても正しくもあり、記者さんの学識の高さを見ることの出来る部分ですが、折角記事の形で多くの人に坐禅会のことを知ってもらえるのだから何とかより多くの方に受け取りやすい表現に出来ないものかと私は頭をひねりました。
 
そこでお借りした表現が、奈良薬師寺の管長であった高田高胤師が使われた
「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心」という般若心経の説明の言葉です。
般若心経は仏様の智慧、空の心を説いたお経です。
お経は難しい表現の多いものですが、高田師が用いられたこの表現は大変受け取りやすく、私が修行していた福井御誕生寺でもお参りの人を迎える法要の結びの言葉に用いさせてもらっていました。
「偏らない心、拘らない心、捉われない心。広く広くもっとひろく、これがお釈迦様の心なり。」と。
 
これがそのまま坐禅の心であるとは言いません。そうした先入観が正しい納得の障りともなるからです。ですが、脚注としてならばとても素晴らしい表現であると思っています。
字数の制限で訂正を全て反映は出来ませんでしたが、記事の結びはこのようになりました。
「言葉に縛られない時間を持つことが大事。とらわれのない仏の心を坐禅で体感して下さい。」
 
                           祥雲寺副住職 安藤淳之
 
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:9月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 

     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。




また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

 
 


2017年9月20日水曜日

平成29年9月 観音朝詣りのお知らせ


29年8月29日 大施餓鬼会


下町の屋根を 温める太陽は
貧しくも 笑顔を消さぬ 母の顔
悩みを夢を うちあけて
路地にも幸のくるように
ああ太陽と 今日もまた
                                  「下町の太陽」3番

 「下町の太陽」、私はこの歌が大好きです。
倍賞千恵子の歌う声を聞くと、涙が出てくるくらいに。

 高度経済成長の始まり、所得倍増計画が打ち出された昭和30年代半ばの日本はまだまだ貧しさの残る時代でした。
私はお盆の棚経でお檀家を巡(まわ)っていたのですが、小学校の私でも本当に貧乏だなあと感じる家がいくつもありました。
大概は家族に病人を抱えた家だったのですが。

 でも、希望があった。
廃墟から歯を食いしばって復興を成し遂げた親たち、その姿を見て育った子供たち。
社会に勢いがあり、頑張れば未来は開けるという希望に満ちた、もしかすると一番幸せな時代だったかもしれません。

 最近、東京の映画館で倍賞千恵子出演の映画の特集があり、その頃の映画を続けて見ました。
東京の下町。そこで繰り広げられるのは貧乏なればこその悲哀。
それを乗り越えていく力の源は、家族の絆と、同じ境遇にある者たちの連帯です。
だましあり、裏切りあり、挫折あり。
そんな境遇を愛情と信頼と勇気で懸命に切り開いていくストーリーに胸打たれました。
映画の中の虚構ではなく、私の周りにいた人たちのことと受け取れたのです。

 いま放映中のNHKの朝ドラマ「ひよっこ」も、集団就職の若者たちを主人公に昭和40年代前半の時代を描いています。

 現在70歳代から60歳代後半の世代の人たちの青春が、なつかしみをもって思い出される時代になったわけです。
 現在は、社会全体としてみればあの時代に比べればはるかに豊かです。
 しかし、貧困がしわ寄せされた多くの人たちが存在し、しかも若者たちが希望を持つことができないでいるように思えます。
 これをなんとかしなければなりません。

平成29年9月15日
                                祥雲寺住職 安藤明之

 十八日の朝詣りは午前6時から行います。

2017年8月27日日曜日

29年8月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

羅漢拝(お釈迦様の高弟に石堀会の人たちとお参り)


愛語よく回天の力あることを学すべき也」
                                永平道元 『正法眼蔵』



 先日東京にて日タイ修好記念特別展「タイ~仏の国の輝き~」という上野の国立博物館での展覧会を見てきました。

 展示物も素晴らしかったですが、タイの歴史的な仏教信仰の深さ、日本との結びつきの深さをあらわす掲示物も読んでいて大変面白かったです。
タイの国王は憲法によって仏教徒でなくてはならない、と規定されているそうです。
それは、6世紀に仏教が入って以降国を挙げて熱心に仏教を信仰し、今日国民の9割が仏教徒であるというタイの国民性の一つの現れなのかもしれません。

 数ある展示物の中に、タイ王室が建立したお寺を再現したものがありました。
日本のお寺でも煌びやかな、素晴らしい装飾をされた本堂は沢山ありますが、ここまで金色が多用された本堂というのはまず見られません。
その中央、金色に輝く仏さまの御顔は、微笑みの国タイらしく、やはり柔らかく微笑んでいられました。

 仏さまとは西洋的な神、全知全能とされる神秘的超越的存在ではありません。
無常の世の中に遭って、四苦八苦とも称される人生に必ず付いてくる様々な迷い悩み苦しみ、そこから離れる道を見出されたお釈迦様をブッダ(仏陀)、目覚めし人、仏さまとお呼びし、後世同じくその道を歩み成道された人々もまた同じく仏さまと尊称してきました。
仏像とは心の平穏を達成された姿、諸人の理想の有様でもあるのです。

 してみると、タイの仏像に微笑む姿形が多いというのは、タイの人たちの心根を表しているともいえるのでしょう。
冒頭の一句「愛語よく回天の力あることを学すべきなり」という言葉は道元禅師の一句です。
愛ある言葉、行いは時として天と称するような巨大なものすら覆す力をも持つものである。
仏の道、菩薩行を行うものとしてよくよく心するようにと残された言葉です。

 同じ道を歩む異邦の友として、タイの人たちを見習い笑顔を忘れず日々を務めたいものです。
行いが人を作るのならば、何時の日か心根くらいはあの大きな仏さまの微笑みに近づけることもあるのでしょう。
 
                                祥雲寺副住職 安藤淳之



一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:8月28日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 


     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。





また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。







2017年8月26日土曜日

平成29年8月 観音朝詣りのお知らせ

8月13日、お盆の迎え火祭壇前での読経



 NHKで「東京空襲が生んだ悲劇の傑作”噫(ああ)横川国民学校”」という番組を見ました。

 前衛書道家井上有一畢生の書です。
小学校教師であった彼は東京本所の横川国民学校に勤務していて、ちょうど宿直の晩に東京大空襲に遭いました。
避難してきた人たちが入った鉄筋造りの校舎に火が入り、千人余りの人たちが黒焦げになって焼け死んだ惨事に遭遇したのです。
奇跡的に生き長らえた彼は、その時目の当たりにした光景を、30年後に400字ほどの仮名口語まじりの漢文に記し、書として発表し、世に大きな衝撃を与えました。

 文章に綴られている惨劇のすさまじさに戦慄を覚えます。
それと同時に、背負い続けた思いを一文字一文字に託し、その総体として出来上がった作品に対して、もはや芸術とさえ言うこともできない、渾身をこめた魂の現れであると感じました。

 番組の出席者が、これは芸術ではない、供養だと言っていましたが、同感でした。
作品全体が経文に見えました。


 仏教会主催の宇都宮空襲犠牲者追悼法要は7月12日に営まれていますが、毎年この日には必ず東京から来て参列しているという方に今年お会いしました。
家が直撃を受け、隣の部屋にいた妹さんが亡くなられたということです。
生死は紙一重、空襲を受けるその時まで、一家には団欒があり、幸せが詰まっていた。
それが一瞬に打ち砕かれた。
人生には起こることであり、あきらめざるをえないことであるが、生きている限り忘れない。
その思いがあって、それが供養というものです。

 戦災法要の終了後、取材のNHK記者から、この法要は今後も続けていくつもりですがと聞かれました。
私は、もちろん続けますと答えました。
たとえ、直接の被災者が死に絶えても、その悲しみは永く受けとめていかなければならない。
それをなし得るのは仏様であり、仏様に仕え、経を読んで供養するのが私のつとめなのですから。

平成29年8月15日
                                           祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。


2017年7月23日日曜日

29年7月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内

べんてん堂 旧本堂敷地に池を掘り、島の部分に建っています。

「無常を観ずる時、吾我の心、生ぜず。名利の念、起こらず。」
                                      『学道用心集』


先日テレビをつけてみたら、織田信長の特集番組がやっていました。
私も歴史好きの例にもれず、信長のエピソードに胸を熱くし、夢中になって伝記を読んだものでした。
わけても好きな話は桶狭間の戦。絶体絶命の局面を前に「敦盛」を舞って心を定め、奇襲を成功させて天下に名をとどろかせた名場面です。
特集番組の中では、この「敦盛」の舞いに起死回生の秘訣有り、と分析していたのです。

実演を交えていましたが、能を舞うことで呼吸というのは深くなっていくのだそうです。
脳の中で呼吸を司っている偏桃体は、同時に感情も司っています。
感情が入り乱れているときは呼吸が早くなり、落ち着いているときは呼吸も緩やかになります。
呼吸が深まることで感情も落ち着いていく効果をもたらすとのことです。
お家の一大事に際し、逸る心を落ち着かせる効果がそこにあったのです。

また、古文書によれば信長は「敦盛」の一番のみを舞ったそうです。
二番三番と数を重ね複雑になれば脳内で論理を司る大脳皮質が機能する。
そうなれば偏桃体もつられて機能してしまい心は落ち着きを持てなくなる。
シンプルに行うことにも意味はあったのです。

ここで言われていることはどれも坐禅の中で日々実感していることでもあります。
こんなところに類似性を見るとは、と思いつつ、さらにこの番組の内容に付け加えたい点があるなぁ、と思いました。
「敦盛」の内容です。

「人生五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
  ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」

無常なる世の中にあっては人間の生死など夢幻のようなものだ。
死に直面したとしても何ほどのことであろうか、と腹を決めたのはこの故なのではないでしょうか。
私たちは、無常の世の中に自分の命もまた無常としてある、と実感するとき、心を惑わす様々なものから遠ざかるきっかけを得ることが出来ます。

そうしたきっかけ、仏縁をもってもらう場としてのお寺の役割、坐禅会などの行事の大切さ、というのを改めて感じます。
                             祥雲寺副住職 安藤淳之




一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?

日時:7月24日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 


     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。




また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

2017年7月15日土曜日

平成29年7月 観音朝詣りのお知らせ

しだれ桜下の紫陽花

 たまたま乗ったタクシーの運転手さんとのお話です。

 奥さんのお母さんの一周忌の法事に、お母さんの実家の当主を呼ばなかったことに憤慨していました。
運転手さんは、身内、親族を大切にし、また義理を重んじる人のようです。

 最近、年回忌供養だけでなく、葬儀さえも家族葬という名前で、ごく限られた人だけで営む例が増えてきました。
葬儀の中心は亡くなった人なのですから、故人と縁のあるひとに知らせるのは遺族の務めだと思うのですが。

 私がそんな考えを話したら、運転手さんはさらにこんな話をし出しました。

 一人暮らしで亡くなった親戚の女性を、その人の実家のお墓に埋葬させてもらおうとしたら断られたということです。
お兄さんは承知したが、奥さんが反対したということです。
このようなことは実はたくさん例があります。
現在では、断る方が多いかもしれません。

 墓地の本来のあり方では、このような場合には受け入れるものとされます。
墓地は「土」であり、土はあらゆる差別を融和してともに安らぐ所、公界(くがい)だからです。
「母なる大地」とは、そこから作物がとれ、人類を養ってくれた所というだけの意味ではなく、人間の命の濫觴(らんしょう・始まり・源)という意味であり、死はその世界に帰るという人間の本源的な感覚がありました。
「草葉の陰から見守る」という言葉は、死後の世界に対するこのような感覚に基づいています。
これは、古の日本人が自然と一体となって生きてきたと云われる一つの表れです。

 現代では、生きている人を中心に考えることを当然とします。
この考え方では、日本の風土の中で培われた古来からの感覚は薄れていくのは明らかです。
葬儀・法事や埋葬についての考え方も大きく変わらざるをえません。

 60代とおぼしき鹿沼出身の運転手さんは、言ってみれば昔の感覚を持っている人です。
こういう人は少なくなっていくのかもしれないが、貴重な人です。
このような人は、きっと人の世話を親身にしてくれることでしょう。

平成29年7月15日 
                                祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。




7月7日べんてん祭り

7月7日の七夕に、祥雲寺では毎年べんてん様のお祭りを行っています。
 
祥雲寺の境内にはべんてん様のお堂が建っています。
元々は南に隣接する昭和小学校のあたりが沼地になっていて、べんてん様はその沼に祀られていました。
 
沼地埋め立ての後はご遷座してお堂を建ててお祀りし、毎年七夕の日を例祭日としています。
 

 
 
べんてん堂の模様替え

ご詠歌講の人たちの、べんてん様の歌唱え

式衆入場

参拝者への灌頂洒水(厄払い)

参拝者を回っての転読

御一緒に手を合わせお祈りします
参拝者への挨拶

昼食。今年からすり鉢灸は休止になりました

午後は音楽祭。べんてん様は音楽の神様です。


方々で活躍されている方を原先生が集めてくださり、立派な音楽祭になりました。

例年は天気が崩れやすい七夕の日ですが、今年は好天の日となり、よい御祭り日和りとなりました。

2017年6月25日日曜日

29年6月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内


技能オリンピックに向けての栃木HONDA若手坐禅会


 
病んで医王に会うとも いかでかいゆることをえん。 『証道歌』
 
 
 
以前仕事が立て込んで、忙しい状態が数か月続いていたとき、睡眠時間が極端に短くなってしまう、そんな時期がありました。
 
 体力にも余裕がなく、受け答えにも少々とげが見え隠れしてしまう、そんな状態だったので周囲の人が心配して快眠の本なるものをよこしてくれました。
 
 病人扱いされたようで少々カチンとしましたが、心配してくれたことでもあるしお礼を言って持ち帰り、読んでみました。
 
 冒頭文で、「睡眠時間の低下ははっきり病気、障害の類だ」と書かれていて、そこで初めて「ああ、自分は(程度こそあれ)病んでいるのだ」と自覚するようになったのです。
振り返ってみれば、自分は健康体であるという驕り、そして健全でなくてはならないというバイアスが知らず心の中にありました。
それが病人であると認識し、受け止めることでようやく、具体的な対処療法を行える心持ちになったのです。
 
 その本の中でいくつもの方法が書かれていましたが、基本的には身体と心をリラックスさせて眠りやすい状態にしてから寝る、というものでした。
 
 なので私は簡略ながら、寝床に入る前に坐禅を行うことにしました。
 
昔脳科学者が坐禅を行っている人の脳波を調べた所、興味深いことにはっきり覚醒していながら寝ているのと変わらない脳波が検出されたそうです。
これをどのように解釈するべきか難しいところですが、科学で明示される安楽の境地、と言ったところなのでしょうか。
 
 おかげで全面的に、とはいきませんが、ある程度睡眠も改善されるようになりました。
 
                           祥雲寺副住職 安藤淳之
 
 
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?


日時:6月26日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。



また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。