しだれ桜下の紫陽花 |
たまたま乗ったタクシーの運転手さんとのお話です。
奥さんのお母さんの一周忌の法事に、お母さんの実家の当主を呼ばなかったことに憤慨していました。
運転手さんは、身内、親族を大切にし、また義理を重んじる人のようです。
最近、年回忌供養だけでなく、葬儀さえも家族葬という名前で、ごく限られた人だけで営む例が増えてきました。
葬儀の中心は亡くなった人なのですから、故人と縁のあるひとに知らせるのは遺族の務めだと思うのですが。
私がそんな考えを話したら、運転手さんはさらにこんな話をし出しました。
一人暮らしで亡くなった親戚の女性を、その人の実家のお墓に埋葬させてもらおうとしたら断られたということです。
お兄さんは承知したが、奥さんが反対したということです。
このようなことは実はたくさん例があります。
現在では、断る方が多いかもしれません。
墓地の本来のあり方では、このような場合には受け入れるものとされます。
墓地は「土」であり、土はあらゆる差別を融和してともに安らぐ所、公界(くがい)だからです。
「母なる大地」とは、そこから作物がとれ、人類を養ってくれた所というだけの意味ではなく、人間の命の濫觴(らんしょう・始まり・源)という意味であり、死はその世界に帰るという人間の本源的な感覚がありました。
「草葉の陰から見守る」という言葉は、死後の世界に対するこのような感覚に基づいています。
これは、古の日本人が自然と一体となって生きてきたと云われる一つの表れです。
現代では、生きている人を中心に考えることを当然とします。
この考え方では、日本の風土の中で培われた古来からの感覚は薄れていくのは明らかです。
葬儀・法事や埋葬についての考え方も大きく変わらざるをえません。
60代とおぼしき鹿沼出身の運転手さんは、言ってみれば昔の感覚を持っている人です。
こういう人は少なくなっていくのかもしれないが、貴重な人です。
このような人は、きっと人の世話を親身にしてくれることでしょう。
平成29年7月15日
祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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