祇園精舎の菩提樹。 お釈迦様在世の時、最も長く留まって修行された場所。 |
『ダンマパダ』
12月8日はお釈迦様成道の日です。
伝承では、6年の苦行を離れた後、菩提樹の下で禅定に入り、一週間の後、明けの明星と共に悟りを開かれました。
その後5人の修行仲間に始まり、亡くなられるまでガンジス流域を中心にあらゆる階層の人々に教えを説いて歩まれました。
お釈迦様は相手に合わせて様々な言葉で教えを説かれましたが、その中心となる教えが冒頭に挙げた三法印と呼ばれる言葉です。
「一切の形成されたものは無常である。 」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の形成されたものは苦しみである。」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
「一切の事物は我ならざるものである。 」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
-『ダンマパダ』-
あらゆるすべては移り変わっていき、自分の身を含めて思い通りになるものは一つとしてない。
全ては執着を持つべきものではない、そう受け取って生きることが、清浄な生き方であると説いています。
それは、執着こそが人間を縛り世界をゆがめ、そこに苦しみが生まれるからです。
故に執着を挫いて欲望から自己を自由に開放する、清らかな生き方を説いているのです。
仏教の教えは、この清らかな生き方を如何に実践するか、なのです。
煩悩、妄執にとらわれた人間にとって、自己浄化こそ、仏道の基本となるのです。
この清浄行として行われてきた仏道修行、その大切な一つが坐禅なのです。
近年マインドフルネスの名で学校や職場等で実践されているとのことですが、その時に大きな過ちとなるのが、そこに効率性を求めることです。
瞑想は、マインドフルネスは、坐禅は色々なものをもたらしてくれる。それは科学的に実証されています。
しかし、そこに効率性つまり執着を持ち込めば、それは清浄行足り得ません。
その執着が心を縛ります。
坐禅は何物も求めず只ひたすらに行う。
何も求めないからこそ、そこに何とも言いようのない清々しさを感じるのでしょう。
私はそれこそが、道元禅師の説かれた「只管打坐」であると思います。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:12月19日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
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