2010年10月16日土曜日

平成22年10月朝参りお知らせ


星ヶ丘中学サッカー部座禅会
人生、楽しきは相知の心に在り  (王安石  「明妃曲」)
 
 「相知の心」とは心を通い合わせること。夫婦であれ親子であれ師弟朋友であれそのような人間関係を持つことのできた人はしあわせです。
 王安石は11世紀中国宋代の政治家。詩人、文章家としても名高い人です。彼が提唱し推進した新法と呼ばれる政治改革は、窮乏した政府財政を立て直し、軍隊を精鋭化し、人民の生活を向上させるためのものでした。彼は、人民の窮乏を救うことが国家の繁栄をもたらすと考えました。農民を収奪する大地主や経済を牛耳る大商人の特権を削ぐ政策を実行しました。国を動かす高級官僚の多くは富裕な地主層の出身であり、また商人とも結びついていましたから激しい反対にあいました。しかし、彼は断固として改革を実行しました。そしてその改革は相当な成果を上げたのです。
 彼の改革に反対し、左遷された人の中には、司馬光や蘇東坡といった中国の歴史の中でも第一級の文化人がたくさんいました。そのため、歴史上画期的な改革を成し遂げたにもかかわらず、後世の中国人の彼に対する評価はおおむね否定的です。文章、詩、政治実績は素晴らしいが人間性が良くないと評した人もいました。
 冒頭にあげた「明妃曲」も実は非難された詩です。明妃とは漢の時代匈奴の王と政略結婚をさせられた絶世の美女、王昭君のことです。故郷を思いながら野蛮の地で一生を終えた悲劇のヒロインとされました。
 実際の王昭君は、匈奴の王に愛され幸せだったようでそのことは王安石も知ることだったのでしょう。明妃曲では、冒頭に掲げた一節の前に、「漢の王室の仕打ちは冷たく、匈奴王の愛情は深かった」という言葉があります。これが中華思想に凝り固まった人から愛国心が足りないと非難されたのです。
 王安石は、熱心な仏教徒でその平等思想をよく理解していました。そのため国家や民族、階級や貧富、男女の別なく人間を平等に見ることができた人でした。妻や娘たちとやりとりした詩が残されていますが、ほのぼのとした暖かみがあり、人間性の素晴らしさが感じられます。
 平成22年10月15日
                                    祥雲寺住職 安藤明之
十八日の観音様の朝詣りは
午前6時から行います。

高野山参拝旅行(四国遍路お礼参り)10月3日~5日、3日目

最終の3日目は朝から快晴、秋らしい過ごし易い天気になりました。
ホテルを出て最初に向かったのは円月島。
円月島の周囲で、海底のサンゴや熱帯魚を見られる船に乗船しました。


船着き場で乗船時間待ち。
若干古びた感じがいかにも昭和の時代の雰囲気を残してるような・・。


船も若干古びた感じでしたが、
近畿の海辺でも珊瑚や熱帯魚が生息してるのが観賞できたのには素直に驚きました。
人によっては蛸なんかも見れたそうです。
やはり海無し県人には海関連のものは大分ツボに来るようで、大いに好評でした。


続いて道中の真珠資料館に立ち寄り、千畳敷という景勝地にやってきました。


海に大きく突き出た屏風のような断崖絶壁の奇景で、
遠く四国まで見えるような好天や強い海風と相まって気持ちの良い観覧が出来ました。


上の写真は丁度上空を飛んでいた鳥を見上げています。
風に逆らうように飛びながら一定のポジションをキープして、
水面に飛び込んで魚を捕っていました。


旅の最後は安珍清姫伝説で有名な道成寺にお参りしました。


本堂の横に大きな講堂があり、
そこで住職さんから安珍清姫伝説の絵巻物を見ながら寺の縁起についてのお話が聞けました。
お話の中だけでしか知らなかった道成寺物語を
ここであった事、として語られるとまた違う印象を受けます。

講堂の中には歌舞伎や能の道具や資料、
平成天皇が皇太子時代に行幸された時の写真等が飾られてました。


帰りの道中で随所にみられたあぜ道の彼岸花。
あのあたりは彼岸花の生育に適しているのか、道中多くの畑のあぜ道が
この写真と同じくらい彼岸花に埋め尽くされていました。
宇都宮に帰着したのは10時を過ぎてしまいましたが、良い参拝、楽しい観光が出来た旅行だったと思います。。
今回は四国遍路で気心の知れた仲間内で、ということもあって
道中にぎわいが途絶えることのない愉快な旅でした。
また今回のように楽しいお参りが出来るよう企画してみたいと思います。



2010年10月14日木曜日

高野山参拝旅行(四国遍路お礼参り)10月3日~5日、2日目

2日目は明け方大分強く降っていたようですが、日が昇る時間にはやんでくれたようです。
大円院で朝のお勤めを行い、午前中は高野山の山内を廻りました。


高野山に金剛峯寺が建てられる前から祀られていた丹生明神の御堂。


境内に散在するあちこちのお堂をお参りして回る修行僧達。


お堂が密集している檀上伽藍から金剛峯寺まで歩いています。
雨も上がり、歩きまわるのにも丁度良くなってきました。

金剛峯寺本堂で撮影。
中央に移っているのは高野山マスコットキャラクター「こうやくん」。
高野山の至る所で見かけましたが、建物の古さ重厚さからすると大分ギャップが感じられました。


午後は高野山を出て熊野本宮にお参りしました。
日本サッカーチームのシンボル「八咫烏」を祀っている所だけあって日本勝利祈願の絵馬や奉納されたサッカーボールが随所に見られました。
熊野本宮に一部残った熊野古道で撮影。
参道の横に昔の道が一部保存されていました。
標高のせいか、少し時期の外れた彼岸花が綺麗に咲いています。


本宮を出た後数十分だけですが熊野古道を歩いてみました。
熊野本宮の西側、古道の道中にお祀りされた「牛馬童子」に向かう道筋とのことです。
この頃になると天気は快晴、山歩きには最高の天気となり、皆のびのび歩けました。
途中に通っていた山道で沢ガニ発見。
水源が近い山道だと結構頻繁に見かけました。


夕方になり、今日の宿泊場所の白浜温泉に到着しました。
砂浜が綺麗だったので散歩してたら、参加されたご夫婦がいいアングルで歩いていたので一枚撮影。
ちょっと映画のワンシーンみたいに撮れました。

ホテルの方に戻ってみると男性陣は寝るか風呂、
女性陣は浜辺を散歩、と綺麗に分かれていました。
こういう時は何時も女性の方が行動力があるようです。

高野山参拝旅行(四国遍路お礼参り)10月3日~5日、初日

四国遍路に参加した人たちと10月の3日~5日の旅程で
高野山参拝と熊野古道周辺への旅行に行ってきました。

今回は朝6時に祥雲寺を出発して関西国際空港まで飛行機で飛び、大阪からバスで高野山に向かう行程です。

飛行機から見えた富士山。
下に見えるのは御殿場口でしょうか、
頂上の方に雪が積っているのが見えたという人もいたようです。


高野山奥の院参道。
高野山は四国お遍路のお大師様「弘法大師空海」の開いた真言宗の総本山です。
弘法大師のおわす奥の院周辺は、平安末期のころからか
全国のお大師様を慕う信徒が自分の石塔を建てていき、
20万とも30万とも言われる数の石塔があたりを埋め尽くす絶景になっています。


また高野山は宗旨や人を区別せずに受け入れてきた為、
違う宗派や外国の宗旨のお墓、織田信長や豊臣家の墓等有名人ながら当時供養が憚られていた人達の墓所まであり、日本の歴史文化に深くかかわってきた場所との印象を強く受けました。


奥の院手前の橋。

望遠にして撮影した奥の院。
橋より先では撮影禁止とのことで手前から撮影しました。
奥の院に入り、お大師様が今も衆生救済のために修行をされているという霊廟の前まで行き、お遍路を一緒にお参りした皆さんと般若心経をお唱えし、無事お遍路を満願出来たお礼のお祈りをしてきました。
初日宿泊する宿坊の大円院。
高野山は東西6キロ、南北2キロの山上盆地に開かれた一大宗教都市でもあります。
この中に100を超える寺院があり、その内50ほどが宿坊を営んでいるそうです。
何でも平家物語に登場する滝口入道が修行したお寺であるそうで、門がまえも中も立派で、それでいて宿泊設備は新しく整えられた素敵な宿坊でした。


夕食の際に、大円院の藤田住職から御挨拶を頂きました。
御住職は、大学時代に祥雲寺住職と学友だったとのことで、過去高野山にお参りした際もお世話になっていたそうです。
今回も親しくお話しいただき、大変歓待頂きました。


夕食のお膳。とてもとても美味しかったです。
(正直な所、これまで経験したどのホテルや旅館の食事より遥かに)
全て精進料理なのですが、料亭で出るような食事と比べても遜色ない水準で、
肉や魚などの重さが無い分こちらを好む人も多そうに思いました。