2017年12月19日火曜日

12月1日、無縁供養水子地蔵尊例祭


毎年12月1日は祥雲寺無縁供養、水子地蔵尊供養の日です。
 
 祥雲寺の無縁供養は天明年間(二百二十年前)に起源をもつ伝統行事です。
私たちは普段の行いとして親類縁者の為の供養(一周忌等の年回供養)を行いますが、無縁供養は直接のつながりがなくとも自分たちに恵みを与えている諸々に、そして天地万物に対して行われる報恩感謝の供養です。

 この日に合わせて祥雲寺石彫り会「羅漢の会」の石仏の点眼式、水子地蔵尊の供養、また来山して頂いた皆さんに楽しんでもらえるよう演奏会を行っています。
石彫会による500羅漢の点眼式
新しく彫られた羅漢さま
無縁供養塔前での式

御詠歌講の方たちとお唱えしながら巡ります。

水子供養


宇都宮シルバーアンサンブルの演奏。
皆で昔懐かしの歌を合唱しました。



2017年12月16日土曜日

29年12月 月例早朝坐禅会「指月の会」案内


フラワーアレンジメント教室作品


正見(正しく見る)『八正道』

 

先日テレビでOLをしている山ガールの取材が流れていました。

曰く、山登りの良いところは、何も思い煩う必要がないところにある、だそうです。

普段の仕事の場だと、気配り目配りが煩雑で、なかなか気が休まらない。

だけど山では、計画準備をきちんとすれば、ただ登り、ただ降りることだけに専念すればいいだけで、そこに全力を、迷うことなくつぎ込めばいい、そのシンプルさがいいのだといっていました。

私も山登りは好きです。

ただあるがままの自然の中では作為は存在せず、普段の社会の中での日常から離れて命を働かせる。坐禅の中で感じる清々しさにも似た印象を受ける事すらあります。

それは、雑念に惑わされる必要がない時間なればこそ、と思っています。

 

仏教では、迷いから離れる八つの正しい行い、八正道というものがあります。

その一番最初に来るのが正見、正しい見方です。欲に振り回されずに物を見る目を養うには、欲に振り回されている普段の自分から一度離れる必要があります。

 

「見たものを綺麗と思うのは、それを見たあなたの心が綺麗だから。」

 

昔どこかでこんな表現の言葉を聞きました。

山の中で見る景色をことさら綺麗と思うのは、普段と違うまなざしで見れているからかもしれないですね。
 
                                祥雲寺副住職 安藤淳之
 
 
 
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:12月18日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 
今月は歳末の為第三月曜日に行います。

     6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
     7時20分~8時    (二回目の坐禅)

場所:祥雲寺本堂一階

用意:身一つで大丈夫です。
    足の組めない方は椅子での坐禅もできます。


注意:初めての方は最初に指導を行います。
    その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。

また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。

 
 
 

平成29年12月 観音朝詣りのお知らせ

祥雲寺陶芸教室作品展示


 今上陛下が退位され、再来年の五月一日に新陛下が誕生します。

 即位の儀礼について、新しい時代に即したものにするという見出しが新聞に載っていました。

 儀礼の中で最も大切なものは大嘗祭です。
皇居に大嘗宮が設けられて行われます。
祭礼の次第は一応公表されていますが、詳細は伏せられているので秘儀とされるものです。
そのため、戦前から現代まで多数の学者がその意味を考察しています。
いろいろな説があるのですが、ともかく皇位を継承するに当たっての宗教的な儀礼であることは否定できないことでしょう。

 ここで問題が生まれます。
それは、国がいかなる宗教的活動もしてはならないという憲法の規定があるので、大嘗祭のために国費(税金)を使えるかという疑問です。

 これについては、是とするにせよ、非とするにせよ、法律家を始め、識者からいろいろな意見が出ると思いますが、私は公費の出費はあってしかるべきであると思います。

 それは、全体として日本国民は象徴としての天皇を受け容れているという現実から来るものです。

 敗戦の時、天皇制が廃止される可能性はあったはずです。
そうならなかったことにより歴史と文化の総体としての日本国が存続できたと私は思います。
また、そこから生まれた安定した国情が戦後の復興と繁栄に大きく寄与したとも思います。

 天皇の権威がどこから来ているのかを理屈でもって示すことはできません。
今日、天皇が神であると思っている人は殆どいないでしょう。
私は昭和天皇に対しても今上天皇に対しても敬愛の念を持っていますが、お二人とも同じ人間です。
しかしその人が国の象徴という特別な存在になるのは、何らかの儀式が必要であると思うのです。
そしてその儀式は伝統を踏まえたものであり、宗教性を帯びることは自然なことと思うのです。
 
 人間は宗教性を持った生き物です。
今日、さまざまの人が声高く叫ぶ、宗教性を排除することが正しいとする言説に納得することは出来ません。

 平成29年12月15日 
                                        祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時半から行います。