この夏羅漢渓に咲いた蓮の花 |
「不立文字」
先日、坐禅会のことで新聞の取材を受けました。
朝日新聞の若い記者さんでしたが、以前は京都で寺社の取材を担当していたそうで、とても博識な方でした。
私の纏まらない話を大変うまく整理してくださり、簡潔な読みやすい記事用の文章にされて確認を求められましたが、この文章は変えてもらいたい所が一つ目につきました。
「言葉では語りつくせない仏様の教えを坐禅で体感してほしい」といった表現の所です。
昔から禅宗では「不立文字」と言って、悟りの心は頭で理解するものではなく体で納得するものだとされ、故に文字によって立たず、不立文字と表現してきました。
坐禅のことは坐禅でしか表現し得ない、他のものに還元して理解することの出来ないものです。
このまとめの表現はむしろとても正しくもあり、記者さんの学識の高さを見ることの出来る部分ですが、折角記事の形で多くの人に坐禅会のことを知ってもらえるのだから何とかより多くの方に受け取りやすい表現に出来ないものかと私は頭をひねりました。
そこでお借りした表現が、奈良薬師寺の管長であった高田高胤師が使われた
「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心」という般若心経の説明の言葉です。
般若心経は仏様の智慧、空の心を説いたお経です。
お経は難しい表現の多いものですが、高田師が用いられたこの表現は大変受け取りやすく、私が修行していた福井御誕生寺でもお参りの人を迎える法要の結びの言葉に用いさせてもらっていました。
「偏らない心、拘らない心、捉われない心。広く広くもっとひろく、これがお釈迦様の心なり。」と。
これがそのまま坐禅の心であるとは言いません。そうした先入観が正しい納得の障りともなるからです。ですが、脚注としてならばとても素晴らしい表現であると思っています。
字数の制限で訂正を全て反映は出来ませんでしたが、記事の結びはこのようになりました。
「言葉に縛られない時間を持つことが大事。とらわれのない仏の心を坐禅で体感して下さい。」
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:9月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
注意:初めての方は最初に指導を行います。
その為可能ならば一回目の坐禅から参加されてください。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。