今朝の祥雲寺参道。春を待つ雪中梅 |
心意識(しんいしき)の運転を停(や)め、念想観(ねんそうかん)の測量(しきりょう)を止(や)めて作仏を図ること莫れ
『普 勧 坐 禅 儀』永平道元
二年ほど前に、雀宮善応院で行っている坐禅会にテレビの取材を受けたことがあります。
宇都宮ケーブルテレビという所の放送で、新年を迎えるにあたりリポーターの心を清くして臨むため坐禅をする、といった筋立てだったと思います。
テレビに映るのはもちろん初めてだったので、マイクを向けられて話すのは大変に緊張しました。
色々と聞かれましたが、その中で「坐禅で得られるものって何ですか?」と聞かれたのが一番答えにくかったです。
というのもその少し前、僧侶の研修会で坐禅の功徳について話をした所、指導の方から「君はまるで坐禅のセールスマンだな」と大変に痛いご指摘を頂戴したばかりだからです。
坐禅は無所得無所悟(目的を持つことさえも止め、ただ坐る)で行うものとされるから、坐禅の利点を言い連ねて説くことは認識を誤らせる元になります。
ですが私は、坐禅の功徳を確信しています。
10年ほど僧侶として修行を行い坐禅を組み、その中で坐禅は様々な気づきを与えてくれました。
これ程素晴らしいものなのだから、もっと多くの人に知ってほしい。
そういった思いから、どのようにして坐禅の素晴らしさを話せばよかったのか、取材の翌日もぼんやりと考えながら作業をしていました。
その中でふっと閃きました。
「ああ、坐禅っていうのは、為でないから素晴らしい、と答えれば良かったんだ」
静かな落ち着いた所で静かに坐禅を行い内面も落ち着いてくると、普段見えなかった色々な気づきが訪れることがあります。
しかし、そういった訪れの有る無しにかかわらず、坐禅を行った後は清々しい心持になります。
それは、坐禅が何かの為に行うものではなく、何の為でもないことに集中をできる、人生の中で知らず背負っている荷を下ろすことの出来る「かろやかに生きる」行いであるからだと思います。
冒頭の引用は、道元禅師が坐禅を世の人々に進めるために書かれた『普勧坐禅儀』の一節です。
「坐禅を行うときは普段当たり前に行っている情報の取捨選択、判断することを休止して、無になろう悟りを開こう仏となろう等、何かの為に行おうともしてはならない。」
今ならばあの時の取材にこう答えます。
「坐禅は色々なプレゼントのある素晴らしい行です。
しかし、最も素晴らしい坐禅は、そういった何かしらの利益を求めて座るのではなく、
求めることを放棄してただ坐る、これが一番よい坐禅となります。」
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:1月25日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可)
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています