2015年9月17日木曜日

平成27年9月観音朝詣りのお知らせ



本堂前、西国観音様
 
今年は2週間近く早く彼岸花が咲きました。
 島田裕己さんという宗教学者がゼロ葬というのを提案しています。
 
 遺体を火葬場に持って行き、火葬が終わったら遺骨を受け取らず火葬場で処分してもらうというのです。
墓地は要らず、散骨等という手間もとらない、きわめて安上がりな葬儀が可能であると言います。

 遺骨を火葬場が引き取るのかと疑問に思う人が大部分だと思います。
しかし、関西地方では昔から、のど仏など少量の遺骨を遺族が受け取り大部分を火葬場で処分する習慣があります。
民間運営が多い東京の火葬場ではそれにならって遺骨全部を火葬場で引き取るところもあるかもしれません。

 問題は、この人の言うゼロ葬が、どんなにもっともらしい理屈をこねても、葬儀ではなく結局は遺体の処分にしかならないということです。

 ゼロ葬をする人も、亡くなった人と親子であれ夫婦であれ親族であれ特別な関係にあるはずです。
生活を共にし、共にした、あるいは血の絆を持った人です。

 そのような近しい人を失って、悲しみ、悼(いた)むのは、人間の自然な感情です。悼まない人もいるかもしれないがそれは特殊な人であったり、よほどの事情のある場合です。

 葬儀は、悼み、悲しみの感情を、儀式を通して安心へと導くものです。
儀式を通すことによって、止め処なさや不条理さを伴った感情という中にある悲しみが、純化され、深められ、悼む人の心も安らぐのです。

 しかも、このような安心への導きが必要なのは、近親者だけではありません。人がこの世を生きる中で生まれる絆ー縁といいますーある人にも必要なのです。

 宗教学者ならば、以上述べたことは百も承知であるはずです。
それなのにゼロ葬なというのは、どういう了見があってのことでしょうか。

 親子、兄弟、親族の結びつきは、理屈を超えたものであり、それによって社会が成り立っているのです。
それをどうでもよいとするならば、遺産の相続など私有財産に関することも成り立たなくなります。

 平成27年9月15日
                              祥雲寺住職 安藤明之

十八日の朝詣りは午前6時から行います。

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