4月末、早朝の藤の花 |
我が説法は筏(いかだ)の喩(たとえ)のごとしと知るべし。
法もなお捨てるべし。 「金剛般若経」
筏(いかだ)の喩えとは、お釈迦様が弟子達に説いた有名なたとえ話です。
旅人が、大きな川に出会った。
こちらの岸は危険で恐ろしく、向こう岸は安全であるとしよう。
彼は草、木、枝、葉を集めて筏を組み、無事に川を渡ることができた。
渡り終えて
「この筏は私のためになった。行く先でも役に立つであろうからこれを持って行こう」
こう考えることは正しいことであろうか。
弟子たちは答えます。
「正しいとは思いません」
それではどうしたら彼は、その筏に対してなすべきことをなしたことになるのだろうか。
すなわち、この筏は私のためになった。
これによって安全にこちらの岸に渡った。
私はこの筏を岸に引き上げ、あるいは水上に浮かべて、そのままにして行こう。
彼がこのようにしたならば、筏に対してなすべきことをなしたのである。
このように、ものに執着しないように、この筏のたとえを知っている君たちは教え(法)をもまた捨てるべきである。
お釈迦様は、人間がどうしたらとらわれから離れることができるかについて、さまざまな形で説かれました。
わかりやすいたとえ話もあれば、むずかしい理論もあります。
厳しい修行への導きもあれば、深い慎みをもって日常を生きるべしとの諭(さと)しもあります。
ひとつひとつは、解脱のためのすぐれた手立てであり、それが法です。
しかし、いかに素晴らしい手立てであっても、それにとらわれてしまう時、それは「とらわれ」「足かせ」となります。
お釈迦様は、みずからの教えさえも相対化する透徹した教えを説かれているのです。
もちろん、法を捨てても、道を求めてたゆむことなく進むものには、清浄な心が保たれ、天地に恥じない人倫が貫かれていることは言うまでもありません。
法とはそういうものです。
平成27年5月13日
祥雲寺住職 安藤明之
十八日の朝詣りは午前6時から行います。
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