旧本堂としだれ桜。もうじき開花です。 |
『只管打坐』
道元禅師
最近、鎌倉の臨済宗のお寺にこの春から修行に行く方とお話しする機会がありました。
他宗の方とのお話は、やはり常にない視点を意識できるためか考えされられる点を多く見つけられます。
私が福井御誕生寺にいた時分、作家で臨済宗の玄侑宗久師が拝登され、お話を聞く機会がありました。
「曹洞宗は黙照禅、臨済宗は公案禅の違いがある。
臨済の公案禅を修行した私からすれば、曹洞宗は道元禅師の残した『只管打坐』という巨大な公案に取り組んでいる、という風に受け取れる」
といったお話が記憶に残っています。
坐禅会で坐禅の説明をするとき、「目的意識を持ち込まない」ことを強調してお話ししています。
経験則上、「~を達成しよう」的な目標達成を意識した坐禅は、清々しさが損なわれている場合が多いです。
あまり正確な情報ではないですが、外国で様々な現場で取り入れられたマインドフルネスが、期待通りにいっていない、という話を聞くのはここが理由ではないかと思います。
坐禅はこの身一つ、裸の命になって行うものです。
坐禅を行う時、これまで培ってきたもの得てきたものは不要となります。
だからこそ終わった時の清々しさ、軽やかさがあるのでしょう。
『只管打坐』という教えの要諦はそこにあるのではないか、検証している最中であります。
祥雲寺副住職 安藤淳之
一人で修行を行おうとすると、怠けてしまったり後回しにしてしまい続かない場合もあります。
ですがみんなで行えば、難しいことでも楽しく行えるはずです。
この朝坐禅会はそのような場となるよう始めました。
一日の始まりを迎えるこのひと時、ご一緒に「かろやかに」生きてみませんか?
日時:3月27日(月)朝6時半~8時(途中参加、途中退出可) 既に終了
6時30分~7時10分(一回目の坐禅)
7時20分~8時 (二回目の坐禅)
場所:祥雲寺本堂一階
用意:身一つで大丈夫です。
足の組めない方は椅子での坐禅もできます。
また、祥雲寺では毎週水曜夜6時(第四水曜のみ休み)、雀宮布教所「善応院」にて坐禅会を行っています。
次々回の指月坐禅会は4月24日となります。