横浜鶴見総持寺 |
月が皓々(こうこう)と照る夜半、求道のこころざし篤い修行僧が坐禅をしていると師匠が近づいて月を指さし、
「そなたは月が二つあることを存じておるか」
と問いかけました。
修行僧がいぶかしく思っている様子を見て、師匠は立ち去ります。修行僧はおのれの未熟を恥じ、修行に精進しました。
月日経ち、身も凍る寒い月の夜に坐禅に努めているとき、師匠が近づいて指をパチンと鳴らしました。その瞬間、修行僧は悟りを得たのです。
修行僧は大本山總持寺の第二世峨山(がさん)禅師、師匠は太祖瑩山(けいざん)禅師です。
「両箇の月」と呼ばれるこの公案について、いろいろな解釈がされています。ただ解釈は解釈であって、それで峨山禅師の悟りを示すことはできません。悟りは師家(師匠)と学人(弟子)の全人格の感応道交の中にあるものなのですから。
それをことわったうえで、解説をしてみます。
仏教では月は真理の象徴です。真理は真如とも仏性ともいい宇宙から自己までを貫く絶対の真実です。修行僧の坐禅は一点の曇りもない満月のごとき唯一絶対なる真実、真理を求めてのものでした。それに対し、師匠は一つではないと言い放ったのです。
月には満月もあれば、三日月、新月もあります。群雲に隠れることも、雲間より光のみが漏れいずることもあります。
現象の奥にある普遍の天体のみを真実の月とするのではなく、千変万化する現象のあり方に心を通わす融通無碍の境地を般若といい実知恵ともいい、その境地に到ることを悟るというのです。仏教はものごとを固定的にとらえません。
大切なことは、全身全霊を傾け修行する僧と、闊達の境地にいる師匠の間だからこそ成り立つ話であるということです。
命がけの真剣勝負でなければ、何事も適当でいいよという俗話になってしまいます。
平成26年5月15日
祥雲寺住職 安藤明之
過去の未掲載のものをあげました。